ハワイの沖縄県人捕虜、14歳が9人 沖縄戦、低年齢の動員裏付け 米軍資料の名簿発見


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沖縄県公文書館に所蔵されている沖縄戦のハワイ県人捕虜約3600人に関する米軍作成名簿の中に、これまでに元捕虜の証言で得られていた最年少の15歳を下回る14歳の少年9人が含まれていることが26日までに分かった。

沖縄国際大学の吉浜忍教授(沖縄近現代史)は「14歳の少年が海外に捕虜へ取られたという記録は聞いたことがない」と指摘する。本土決戦の“捨て石”作戦を履行するために根こそぎ少年らが強制動員された沖縄戦の実相が、米軍資料で裏付けられた形だ。同時に戦後も、幼い少年らが捕虜として海外で抑留生活を強いられた苦難の実態が浮き彫りとなった。

沖縄戦では米軍の捕虜となり、屋嘉収容所(現金武町)などに収容された県人3000人余が1945年6月以降に順次、移送船でハワイへ連行され、最長1年半もの間抑留生活を強いられた。だが日本側には関連資料がほとんどなく、移送された理由や全容も分かっていない。

捕虜名簿は今年2月、ハワイ日系人の強制収容について研究する秋山かおりさんが県公文書館で見つけた。名簿には英字で「シンザト・チョウエイ」や「シンザト・ジンヨウ」など各捕虜の氏名、階級、生年月日、本籍、最近親者が明記されており、少年9人のうち4人が旧首里市の出身だった。また最年長者は54歳だったことも判明した。

1人でも多くの戦力を確保するため日本政府が改訂を重ねた防衛召集では最年少は15歳だったが、沖縄では中等学校全12校の男子生徒(14~19歳)が強制的に戦場へ送り込まれ、上級生は鉄血勤皇隊に、下級生は通信隊に編成された。

吉浜教授は屋嘉収容所に抑留された大半は軍人と軍属であることから、少年らが通信隊か護郷隊だった可能性を示唆。ただ、混乱の時代背景を考慮すると「たまたま手に入れた軍服を着ていた少年を米兵が兵士と見なしたり、個人情報の聞き取りの際に年齢を聞き間違えたりした可能性も否めない」との見解も示した。

15歳で捕虜となり、移送船上で16歳の誕生日を迎えた元衆院議員の古堅実吉さん(88)は「船内では私と、もう1人の同い年の青年が最年少だとして食事の配給係を任されていた」と証言し、中学2年生ほどの幼い少年が複数いたことに「信じがたい事実だ」と嘆いた。(当銘千絵)

判明した14歳の少年9人の氏名と本籍は以下の通り。(敬称略、市町村名は当時)
▽カミザト・センカツ(知念村)▽シンザト・ジンヨウ(真和志村壺川)▽シンガキ・セイコウ(首里市当蔵町)▽トカシキ・シンコウ(中城村屋宜)▽ヤマカワ・ミツヒラ(首里市池端町)▽ナカザ・ゲンジ(首里市寒川町)▽シンザト・チョウエイ(本部町渡久地)▽タカミネ・チョウユウ(首里市大中町)▽トウヤマ・セイイチ(豊見城村)