強制死の史実刻むチビチリガマ 87年には「平和の像」破壊も


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 沖縄県読谷村波平のチビチリガマに避難していた約140人のうち住民83人が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた背景には、皇民化教育や「鬼畜米英」との考えが国によって住民にすり込まれていたことが影響したと指摘される。

 村史によると、住民は米兵らの残虐な仕打ちを恐れ、ふとんや毛布などに火を付けた。「窒息死を図ったり、毒薬注射をして死に至らしめたり、鎌や包丁などの刃物で殺し合う惨劇となった」という。

 遺族や生存者は心の傷の深さのあまり、戦後長く口を閉ざし悲劇が表に出ることはなかったが、1983年、作家・下嶋哲朗さんらの調査で全容が明らかになった。その年に遺族会が結成され、慰霊祭が毎年開催されるようになった。

 彫刻家の金城実さんが住民らと協力し完成させたのが、戦争の恐ろしさや愚かさを伝える「世代を結ぶ平和の像」。87年4月に除幕式が行われた。しかし、7カ月後に読谷村の海邦国体ソフトボール会場で起きた日の丸焼却事件への報復として、右翼団体員により像が破壊された。

 事件後、破壊されたまま現場を保存し、公開しておくべきだとの意見が出た。一方、破壊されたままの姿は忍びないとの声が上がった。県内外から修復を願って約1千万円もの寄付が遺族会に寄せられ、戦後50年の節目となる95年、金城さんや遺族らが協力して8年ぶりに修復していた。

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 チビチリガマ 読谷村波平にある自然壕。1945年4月の沖縄戦で米軍が上陸したことに伴い、周辺の住民140人が避難。4月2日、米軍の投降に応じずに83人が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた。事実は長い間表に出なかったが、83年に作家・下嶋哲朗さんや住民による調査で全容が明らかになった。