社会

火の破片、恐怖今も 沖縄県うるま市川崎米軍機墜落から56年 

静かに事故の日のことを語る多嘉良初子さん=沖縄県うるま市川崎

 1961年、沖縄県旧具志川村(現うるま市)の川崎地区に、米軍のジェット機が墜落した事故から7日で56年になる。死者2人、重軽傷者6人と地元に大きな被害をもたらした事故だ。うるま市立川崎小学校では7日に平和集会を開き、平和への思いを新たにする。墜落事故を目の当たりにした多嘉良初子さん(85)=市川崎=は「また戦争が来たと思った」と、当時の恐怖を振り返る。

 事故が起きた61年12月7日、多嘉良さんは5歳の息子と自宅にいた。洗濯をしようとしていたところ、突然火の付いた米軍機の破片が自宅の壁を突き破った。「突然のことで、音がしたかは覚えていない。恐怖よりも驚きが大きかった」。火は家財道具などに燃え移り、大きくなっていった。「あれこれ考えてる暇なんてない」と、バケツで火を消そうと必死だった。

 そこへ、近くの住民が慌てた様子で多嘉良さんの家に来た。「旦那さんがけがをしている。ちょっと来て」と告げられた。事故の時、夫の知富さんは近所のおじの家を訪れていたが、家の壁を米軍機の破片が突き破った。知富さんはその破片が顔面に当たり全治3カ月の傷を負った。

 多嘉良さんは自宅の消火も終わらぬまま、息子を背負い、知富さんが運ばれた病院へと米軍車両で向かった。「破片が(夫の)顔と鼻に当たって、顔はぱんぱんになっていた」。知富さんが顔を押さえていた白いタオルは血で赤く染まり、鼻の骨が見えるほどの傷だった。

 その後、自宅に戻ると、家財道具の一部は近所の人が運び出してくれていたが、自宅は半焼したという。

 事故から約半世紀がたち、14年には証言集が刊行されたが、遺族や被害者の中には今も多くを語らない人もいる。多嘉良さんは「あんな惨状、誰も思い出したくない」と話す。「夫の顔面に当たった破片があと数センチずれていたら」「もし子どもを預けに、おじやおばの家に向かっていたら」―。当時の恐怖は、今も多嘉良さんの胸から消えていない。(上江洲真梨子)