【キラリ大地で】アメリカ 旧東風平出身 川田末子さん


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邦人子弟に日本語教える

米国で日本人子弟の教育に尽力してきた八重瀬町出身の川田末子さん(右)と夫の薫さん

 米国で暮らす日系人や日本人の子弟の教育に尽力してきたウチナーンチュがいる。川田(旧姓・新垣)末子さん(69)だ。1948年、八重瀬町(旧東風平町)世名城に生まれ、1967年に糸満高校を卒業。将来、沖縄の教育者になりたいと、同志社大学文学部社会学部に進学した。米統治下の沖縄から同大への進学はほんの一握り。周りからの期待も大きかった。

 だが、50年代は学生運動が盛んで、沖縄返還と日米安保条約を巡る学生運動で大学の授業が開かれないこともしばしばだった。「自分が想像しあこがれた大学とはだいぶ違う」と失望した時もあったという。

 大学3年の夏。東陽一監督の映画「沖縄列島」の上映準備資金調達のため、京都御所近くの喫茶店で働く1年先輩で後に夫となる薫さんに出会った。彼のいちずな考え方に共感し、協力をするうちにいつしか恋に落ちたという。

 郷里の三重県亀山市にある地場産業に就職した薫さんと、卒業式の翌日に結婚式を挙げた。翌年には長男が誕生。サラリーマンの夫を支えながら、子どもの教育に携わりたいと学習塾を経営した。

 74年、転機が訪れる。薫さんの米国転勤で、ミシガン州デトロイト市に移住した。その後、クリーブランド市、サンフランシスコ市、ボストン市、サンディエゴ市、ロサンゼルス市と、薫さんの仕事で米国の各都市で暮らしてきた。77年にはクリーブランドで長女が誕生した。

 米国の中西部では当時、東洋人、特に日本人に対する偏見や差別があり、時折、望郷の念に駆られることもあったという。しかし、東部のボストン市への移住後には、米国のコミュニティーに解け込んでいった。このころから子どもの教育に真剣に取り組んでいった。積極的に、日本人子女の日本語補習教育に参加していった。

 89年、サンディエゴ移住後は日本人補習授業校「みなと学園」の教師を引き受けた。ロサンゼルス移住後は、世界最大の日本人補習授業校「あさひ学園」の分校長を務めた。北米沖縄県人会でも、広報活動に協力をしてきた。

 末子さんは「大学卒業後、沖縄へ帰って教育者になる夢は実現しなかったが、人生の大半を児童の教育に携わることができたことを、この上もなく幸せに感じている」と胸を張った。
(当銘貞夫通信員)