「集団自決」忘れない 渡嘉敷慰霊祭、100人超が参列


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白玉之塔の刻銘板に向かって手を合わせる参列者ら=28日、渡嘉敷村の白玉之塔

 【渡嘉敷】1945年3月28日、沖縄戦時に渡嘉敷島で起こった「集団自決」(強制集団死)から73年の28日、沖縄県渡嘉敷村の白玉之塔で、村主催の慰霊祭が開かれた。100人を超える遺族、関係者らが参列した。参列者は刻銘板の中から家族や友だちの名前を探し、近くに花を手向け、鎮魂の祈りをささげた。

 松本好勝渡嘉敷村長は式辞で「光陰矢のごとし、73年を迎えた。われわれは悲惨な沖縄戦を瞬時も忘れてはならない」と話し、悲惨な歴史を後世へ継承していく決意を示した。

 渡嘉敷小中学校の児童生徒は折り鶴で、不戦の誓いを示す「誓」の一文字を表した作品を奉納した。同中2年の山本勘太さん(14)は「平和学習や体験者に聞いた話を僕たちがさらに小さい子に語り継いでいきたい」と話し、刻銘板に向かって静かに手を合わせた。

 妻ナへさんと共に「集団自決」で亡くなった第5代村長で、戦時中は産業組合長だった眞喜屋實意(じつい)さんの娘・宮城幸子さん(91)=宜野湾市=は、刻銘板に刻まれた両親の名を泣きながら指でなぞり「お父さん、お母さん」とつぶやいた。

 宮城さんは渡嘉敷島で生まれ、16歳だった戦時中は瑞泉学徒隊に動員され、本島内にいた。両親の死を知らされたのは敗戦後。「涙は枯れないよ。島のどこを見ても涙が出る。これから先、あんな体験は誰にもさせてはいけない」と険しい表情で話した。

 45年3月27日、米軍が渡嘉敷島に上陸。日本軍の命令で住民らは島北部の北山(にしやま)に集められた。行き場をなくした住民らは28日、極限状態の中で「集団自決」に追い込まれ330人が亡くなった。