太平洋戦争の後、台湾にいた沖縄県出身者がどのように沖縄に引き揚げてきたかについて、本人たちからの聞き取りをまとめた「『沖縄籍民』の台湾引揚げ証言・資料集」がこのほど発刊された。
まとめたのは琉球大学法文学部の赤嶺守教授(64)と、今春同大学院博士課程を卒業し、現在中城村教育委員会で働く中村春菜さん(32)。台湾から引き揚げてきた沖縄出身者は約3万人いたとされるが、その実態の研究はほとんど例がない。赤嶺教授は「ハンセン病患者の送還、元日本兵の『琉球官兵』が果たした役割など、将来的に一級の歴史資料になり得る」と意義を語った。
約9年かけた調査で、引き揚げ体験者約60人から聞き取りをした。しかしあまりにも厳しい体験から掲載を辞退する人もおり、実際掲載に至ったのは当時71~95歳の25人の個人と、7人の座談会となった。
台湾は戦前に移り住んだ人と疎開で渡った人とがおり、敗戦で日本人としての扱いを受けられず、日本政府の補助も打ち切られた。沖縄出身者の引き揚げはすぐに許可されず、多くが路頭に迷ったとされる。
沖縄への公式な引き揚げは1946年10~12月だが、それ以前にヤミ船で宮古や八重山に戻った人の記録は残っていない。船が遭難し命を落とした人もいる。
中村さんは「台湾の疎開体験を話す機会もなければ、聞かれたこともなかったという人が多かった」と話す。中にはヤミ船の遭難で家族を亡くし、そのトラウマ(心的外傷)で今まで誰にも話せなかったという人もいたという。
調査では、元ハンセン病患者の証言も得られた。赤嶺教授は「与那国のハンセン病患者は台湾の療養所に送られた。実態が分からず、研究の壁だった。台湾と沖縄の患者間で差別があった」と指摘した。
さらに「沖縄同郷会連合会」「沖縄僑民総隊」「琉球官兵」といった三つの組織が引き揚げに関わっていたとし、相互扶助の役割も果たしていた。
日本復帰時の県知事、屋良朝苗氏や立法院議員となった安里積千代氏など、戦後沖縄の礎を築いた著名人にも台湾に関わりのある人は多い。赤嶺教授は「沖縄の近現代史を知る上でも重要な資料だ」と話す。
証言・資料集は400部発行し非売品。県内の市町村立図書館など関係機関に寄贈している。調査・執筆には元八重山毎日新聞記者の松田良孝氏と、宮古に詳しい県教育庁文化財課史料編集班の本村育恵氏も協力した。