暗黙の堕胎強制 守り抜いた命 ハンセン病 差別・偏見耐え「娘のため」必死に生きる


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娘や妻への思い、ハンセン病への偏見や差別について語る知念正勝さん=15日、宮古島市

 妻のおなかに新しい生命を授かった。「何が何でも自分たちの手で育てたい」。子どもへの強い思いは、日に日に増していくばかりだった。ハンセン病療養所「宮古南静園」(宮古島市)を退所した知念正勝さん(84)は、1957年に園内で結婚し、翌年に妻の妊娠を知った。当時、園内には妊娠したら堕胎するという「暗黙の強制」があった。

 入所者の大半が「園内では産めない」と考えていた一方で、知念さんら夫婦の他にも、子どもを産んだ夫婦は数組いた。妊娠が分かり、知念さんは妻に絶対に産むべきだと何度も話した。しかし悩みに悩んだ末、妻は園内の不文律にあらがえず自ら堕胎を決めた。知念さんには知らせずに胎児への注射を受けた。だが、堕胎は成功しなかった。「幸いな失敗だった」

 内緒で堕胎しようとした妻をとがめることなど、知念さんにはできなかった。自分のおなかにいる子をいとしく思わない母親などいない。堕胎せざるを得ない状況に追い込まれる妻の苦しみを見て、行き場のない悔しさでいっぱいになった。その後、園から再度手術を受けるように催促されたが、知念さんが引き止め続けた。「おなかの中にいても一つの命。奪うことは許されない」。堕胎は絶対に駄目だと繰り返した。そして娘が産まれた。

 当時、産まれた子どもは1年間だけしか園内で育てることができないという条件があった。娘を預けられる当てもなく、自分の手で育てたいという娘への思いが募った。そんな中で、園内の護岸工事を手伝っていたところ、園外の現場での仕事に誘われた。周囲の人に受け入れてもらえるのかという不安は大きかった。しかし、親子で暮らすため「労務外出」という形で園外での作業にも従事するようになった。

 工事現場の作業では、指先などの神経知覚が弱いため、すぐにけがを負った。体のどこかに包帯をしていると、傷をハンセン病に結び付けた視線を感じ、居心地が悪かった。新聞や電気料金の集金では、客が床に放り投げた料金を不自由な手で拾わされることもあった。悔しさと腹立たしさを味わう瞬間が数え切れないほどあった。それでも立ち止まっていられないくらい必死だった。「娘を育てたかった。命を守りたかった」。そうして差別や偏見に耐えてきたことで、今の自分がある。

 社会復帰をして50年余り。いまだ差別的な被害が根深く残る現状を憂い、知念さんはハンセン病療養所を退所した回復者らでつくる「沖縄ハンセン病回復者の会」の共同代表も務めながら啓発活動を続けている。「同じ苦しみを繰り返さないよう、国の誤った政策を見つめ直し、考えを巡らせてほしい」
 (真栄城潤一)