戦後73年の慰霊の日を迎えた沖縄には、今なお不発弾処理の課題が残り、遺骨収集や慰霊祭の開催も担い手不足で新たな岐路に立たされている。戦前の沖縄社会に根付き、北は嘉手納、南は糸満までを結んでいた軽便鉄道も沖縄戦で焼失し、現在まで沖縄に鉄軌道はないままだ。歳月がたつにつれ戦争体験者は減り、遺族も高齢化する。平和の尊さへの認識を継承することや、戦後処理を巡る課題に直面している。
<不発弾>撤去まで70年必要
沖縄戦の最中に投下された爆弾のうち1万トン程度が不発弾になったとみられている。戦後73年がたった今も、当時の5分の1程度に相当する約2千トンの不発弾が残っていると推定されている。
県防災危機管理課によると、過去10年の実績を基に計算すると、これらを全て処理するには残り70年程度を要する。一方、処理が進むほど新たな不発弾を発見する頻度は少なくなるため、処理が完全に終わる正確な時期は見通せず「多大な時間」(同課)を要する。
県によると、2017年度の不発弾処理件数は558件で、処理重量は21・9トンだった。
件数は前年度比54件(9・7%)減、重量は同5・1トン(23・3%)の減だった。
その前年度には、旧石垣空港で実施された磁気探査調査で大量の不発弾が見つかっていたことが要因だ。
沖縄が日本に復帰した1972年から2017年度の累計処理件数は3万7325件。重量は2037・5トン。復帰後に処理された不発弾とほぼ同量が地中に残っていると推測されている。
<遺骨>収集数、初の1桁台
県の推計によると、県内全体の2017年度の収骨数は9体と、16年度の29体から減り初の1桁台となった。推計では沖縄戦戦没者の遺骨は17年度末で2886体の遺骨が地中に埋もれたままで、未収骨の状態にある。
これまで一定規模の人数で遺骨を収集してきた県遺族連合会などの団体が近年、高齢化や安全な場所での収骨を終えたことを理由に収集を断念したことが背景にある。
県によると、収骨数は12年度は102体、13年度は263体、14年度は194体、15年度は111体と100~200体前後の遺骨が収集されてきたが、16年度は29体に落ち込み、17年度はさらにそれを下回る結果となった。
県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センターの大城光男センター長は「遺族や、遺骨を収集するボランティアの高齢化が進み、ボランティアを引退する人も増えてきている。さらにDNA鑑定などで沖縄戦で亡くなった人の遺骨の特定がしやすくなったことも収骨数減少の要因だろう」と話した。
<刻銘板設置>高齢化、継承に危機感
沖縄戦に動員された県内21の師範学校や中等学校などの元学徒でつくる「元全学徒の会」は県平和祈念公園内に県が建立した「全学徒隊の碑」に、学徒の犠牲者数を記載した刻銘板の設置を県に求めている。同会が各学校の同窓会などに確認し、独自に調べた犠牲者は1966人。沖縄戦に動員された学徒だけではなく、当時学校に在籍し、戦争で亡くなった全ての学徒を犠牲者と見なしている。
同会の会員は皆90歳前後。「私たちにはもう時間がない」と現在まで県や県議会に通い続けているが実現の見通しは立っていない。
学徒隊を巡っては戦後、同窓会を中心に生存者や遺族などに聞き取りを行い、動員数や戦死者数などを調査した。しかし、私立開南中などは同窓会の調査が公的記録に反映されず「不明」とされている。
一方、全ての犠牲者数はひめゆり平和祈念資料館も調査し「沖縄戦の全学徒隊」でまとめ、それが県史にも反映されている。今回、改めて元全学徒の会が取りまとめた犠牲者数は、同窓会によっては対馬丸事件や避難中に亡くなった学徒を広く戦争の犠牲者と捉え直したところもあり、10年前のひめゆりの調査時より増えた学校もあった。