制御不能になった米軍ヘリが民間地に落ちていく光景は、今も脳裏に焼き付いている。沖縄県宜野湾市喜友名の我如古隆さん(55)=自営業=はその日を境に、米軍機が自身に迫るように飛行してくる時、近くの建物内やひさしの下に身を隠すようになった。その度、心の中で祈り続けた。「落ちるな、落ちるな、落ちるな…」
2004年8月13日午後2時15分ごろ。沖縄国際大学の敷地内に米海兵隊のCH53Dヘリが墜落、炎上した。事故当時、我如古さんは墜落現場から約1キロ離れた市真栄原の住宅敷地内にいた。車中で仕事の電話をしていると、フロントガラス越しに低空飛行の米軍ヘリが見え、その直後に黒い物体が尾翼から落ちた。機体に視線を戻すと、尾翼の羽が無い。
「ヘリが危ない。落ちる」。電話相手にそう叫んだ瞬間、ヘリが空中で横に180度回転し、そのまま真下に落ちた。パーンというけたたましい破裂音と共に、黒煙と火柱が空にもうもうと立ち上がる。「大変なことになった」。すぐ仕事に戻ったが、恐怖でハンドルを握る手が震えた。
2週間後、初めて墜落現場の前を通った。黒く焼け焦げた沖国大1号館の壁、壁を切り裂くプロペラの生々しい傷跡。その光景は、我如古さんの心にトラウマ(心的障がい)を残した。
「バララララ」。その日以降、米軍ヘリの旋回音が自身に近づく度、身を隠すようになった。「また落ちてくるんじゃないか」。五感にこびりついた恐怖心は、簡単には拭えない。避難が日常化した生活は、約8年にも及んだ。
墜落事故から14年。命の危険と隣り合わせの生活は、当時と何も変わらないと感じる。母校の普天間第二小(市喜友名)では昨年12月、米軍ヘリから7・7キロの窓が運動場に落下した。ヘリが接近する度に児童が校内に避難する異様な光景は、自身の過去と重なる。
沖縄戦では、祖父と叔母を亡くした我如古さん。「戦後73年。米軍は『良き隣人』と言うが、ならばどうして私たちは被害を受け続けるのか」。憤りは日々募るばかりだ。県内各地で起きる事件・事故を思うと、普天間飛行場を名護市辺野古に移してほしくはない。「できれば基地は無い方がいい。飛行場は県外、国外に移してほしい」。そう願い続けている。
(長嶺真輝)