沖縄にとって明治以降の150年は何だったのか 政府の明治150年記念式典に合わせ考える


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内閣官房が開設している「明治150年ポータルサイト」

 明治改元150年を記念した政府主催の式典が23日に東京で開かれる。内閣官房「明治150年」関連施策推進室は、式典や関連行事について「明治期において多岐にわたる近代化への取り組みを行い、国の基本的な形を築き上げた」などと意義を説明している。しかし沖縄の研究者らは、明治以降の日本の近代国民国家形成が、琉球併合(「琉球処分」)や沖縄戦など沖縄の苦難の原点となったことを指摘している。

 憲法に詳しい高良鉄美琉球大学法科大学院教授は「明治憲法は明治維新後の富国強兵、帝国主義の考えが盛り込まれている。その中で『琉球処分』があり、沖縄戦にもつながった」と指摘する。政府に対し「負の部分が多い歴史を見ていない。政府が(2013年4月28日に)『主権回復の日』式典を開いた時と同様に独善的な部分がある。明治国家を考える時には、アジアなど外国からどう見られているのかも考えないといけない」と強調した。

 県歴史教育者協議会事務局長を務める山口剛史琉球大准教授は「安倍政権が明治を再評価する意図を丁寧に考えないといけない。もしも日本が誇るべき記念の側面しかないならば、都合の良い歴史解釈だけを取り上げた評価にならざるを得ない」と疑問視する。沖縄の立場から「『琉球処分』以降の歴史をどのように政府が総括し、意義付けているかを見抜くことが求められている」と強調した。

 「政府は式典の前に沖縄に謝罪すべきだ」と語るのは琉球民族独立総合研究学会の親川志奈子共同代表。「米国政府はハワイを併合したことを謝罪した。植民地主義を検証し、先住民族の権利を保護するのは世界の流れだが、日本政府は過ちに向き合っていない」と指摘する。「歴史の裏側に沖縄の犠牲があったことに向き合わなければ、負の側面を含めて正確に歴史を理解することはできない。日本人にとっても不幸なことだ」と批判した。

<識者談話>沖縄押さえ付けた150年/西里喜行さん(琉球大名誉教授)

西里 喜行さん

 江戸幕府には琉球を日清両属、最終的には清の属国だとする見方すらあった。しかし明治政府は国内の一地域という見方で強引に内国化しようとした。吉田松陰が唱えた膨張路線に沿って明治政府は朝鮮や旧満州、中国、台湾、ルソンなどへ領域を拡大したプロセスの中に琉球を位置づけたことが、その後の歴史の方向を規定する要因となった。

 政府は1879年の廃琉置県(「琉球処分」)で琉球を併合した翌年、琉球分割を清国に提案している。日清修好条規を改定し、欧米諸国並みの中国内地通商権を得る代わりに、宮古・八重山を中国に割譲する内容だった。琉球の人々の決死の請願により阻止されたが、政府は国益のために琉球を利用しようとした。

 沖縄戦の後、サンフランシスコ講和条約によって日本の独立と引き換えに琉球を分断し、米軍支配下に置いた。さらに1972年の復帰時、日米は繊維製品を巡る貿易摩擦のさなかにあった。ここでも日米両政府は繊維交渉を解決する手段として沖縄を利用した。復帰は「糸と縄(沖縄)を取引した」と言われた。国家権力に利用される地位からの脱却を掲げた屋良朝苗主席(当時)の「復帰措置に関する建議書」は政府に届かなかった。

 現在、政府は名護市辺野古に新基地を押しつけようとしている。政府にとって沖縄を押さえつけ、取り込んでいく150年だった。沖縄にとっては自己決定権を要求し続ける闘いの150年だ。政府の政策に対し「愚直」にも「不条理は不条理」と主張し続けた。そういった視点からも150年間を見直していくことが必要だ。
 (歴史学)