【名護】名護市済井出のハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」開園から10日で80年となった。1907年、国は「ライ予防ニ関スル件」を公布した。ハンセン病を「国の恥」と宣伝し「浄化」として患者の強制隔離を進めた。愛楽園でも次々と患者が強制収容され、96年に「らい予防法」が廃止されるまで自由に生きることを許さなかった。46年に強制収容された渡嘉敷トシさん(93)は入所以来、72年間、一度も園外で生活したことはない。「ここから出ようとは思わない。つらいこともあったけれど収容されるまで一人きりで生きていたから」。戦争と強制隔離という名の国策に翻弄(ほんろう)されてきた。報道機関の取材に初めて自らの人生を語った。
渡嘉敷さんは1925年、兵庫県に生まれた。ハンセン病を患っていた父親の病状が悪化し、6歳で両親の古里、沖縄に戻った。現在の南風原町で暮らし、父は人力車の車夫として働いた。「あまり稼げなかった。父はハンセン病の症状が顔に出ていたから、病気がうつると言われ客も寄りつかなかった」。父親の病状は悪化し、生活費を得るため渡嘉敷さんは12歳で那覇市の辻遊郭に売られた。
「父の病気もあって貧乏だった。仕方なかったよ」。きょうだいはいない。病と差別によって両親は思うように働けなかった。恨みはない。ただ、さみしかった。「泣いても笑っても一人。学校も2年しか通えなかった」。売られて1年後、父は病死した。
ハンセン病に遺伝性はないが渡嘉敷さんもハンセン病を発病した。「顔に赤い斑点が出た。父を見てるからすぐ分かった」。当時、辻では医師の検査が定期的にあった。明るみに出ることを恐れ、うそをついた。「屋我地(愛楽園)に行かされ、殺されるんじゃないかと思った」。病状もそれほど悪化しなかった。
45年4月、本島で沖縄戦が始まった。渡嘉敷さんは遊郭からの帰宅を許され、母と共に戦場を逃げ回った。現在の糸満市喜屋武付近で米軍に保護された。母は収容中に亡くなった。「砂浜に穴掘って埋めて、それっきりだ。平和の礎に名前があるから毎年、手を合わせに行っている」。
再び一人になった。「病気もある。生きていても仕方ない。死んだ方が楽だ」。そう考えていたころ、旧大里村(南城市)の収容所でハンセン病患者と周囲に知られた。愛楽園に強制収容された。
「殺される」と思った施設での暮らしが孤独を忘れさせた。「みんなで畑して、ご飯も食べて。ぼろぼろじゅーしーをよく食べた」
23歳で結婚した。相手も入所者だ。「園内で免許を取った後、ドライブに連れて行ってくれた」。本島中を回ったことを今も思い出す。
90年に夫は亡くなったが、2人の間に子どもはいない。理由を尋ねると「ここは子どもを産ませなかったから」。ぽつりと言うだけだった。
元患者にとって園は自由に生きる権利、尊厳を奪われた象徴だ。一方、互いに支え合って泣き笑い、たくましく生き抜いた人生も刻まれている。
「もう70年暮らしている。園は家で入所者は家族よ。自由に楽しく生きていきたい」と語った。(佐野真慈)