【ニューカレドニア】在住8000人、現地で輝く 自信と誇り、取り戻す


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◆ニューカレドニアの「日本人」/山田由美子

 

食事会に出席したニューカレドニアの日系2世の人たち。自信を取り戻した彼らは自分たちの中の「日本人」を意識するようになった

 昨年11月4日、ニューカレドニアでフランスからの独立の是非を問う住民投票が行われた。「天国に一番近い島」として知られる平和でのどかな島が世界から注目された。この注目度は独立闘争の激しかった1980年代と比較すると隔世の感がある。当時、ニューカレドニアは日本人にとって「新婚旅行」で人気であり、「夜間外出禁止令」も「暴動騒ぎ」も日本で報道されることはほとんどなかった。30年近くかかって実施された投票結果は反対が56・4%、賛成が43・6%という結果になった。ヨーロッパ系が多い首都ヌメアで予想された結果よりはるかに接戦だった。元植民地というとヨーロッパ系と現地のカナック系との確執のように思われるが、実はニューカレドニアは多民族の島である。約27万人の人口は、ヨーロッパ系、カナック系、アジア系、ポリネシア系と実に多彩な人種で構成されている。政府は人種のモザイクを尊重し「共同体国家」を政策の一つとしている。

 日系人社会は「極小」だが、共同体の一つである。正確な日系人人口は把握されていないが約8千人といわれている。ニューカレドニアの日系人は今、いぶし銀のように輝いている。戦後、日本人は戦争捕虜として隔離され、強制送還され財産も奪われた。残された2世とその家族は「敵性国民」としてみなされたが、地道に次世代のために働き続けた。3世代目を立派に育て自信を取り戻した彼らは自分たちの中の「日本人」を意識し、口にするようになった。最初は遠慮がちだったが、自信と誇りを持つようになった。

 1983年12月、真夏のニューカレドニアに降り立った私は79年に発足した日系人の会「日本親善協会」のピクニックに招待された。多くの日系人が浜辺にある別荘のベランダでにぎやかに親睦を深めていた。その人たちは日本語を解さなく、人種も体格も多岐にわたっていた。その中で「沖縄のそばの島」(徳之島)から来たという私の自己紹介に敏感に反応した人がいた。父親が沖縄出身のザアン・ヴィクトールさんだ。沖縄はザアンさんの故郷そのもので沖縄を語る目は輝いていた。ザアンさんの本当の名前は座安さん。名前の登録時に「ザアン」と呼ばれそのまま呼称になった。このような例は数しれない。

 今後は私が見つめ続けてきたニューカレドニアの日系人、県系を中心に彼らの生活、アイデンティティの継承などの課題を掘り下げて紹介していきたい。
 (ニューカレドニア通信員)