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1969年10月19日午後1時ごろ、牧志公設市場の北側店舗から火の手が上がった。瞬く間に火が広がり、市場の大半を焼き尽くした。
「やられた」。公設市場で精肉店を営んでいた高良仁徳さん(87)=那覇市中心商店街連合会顧問=は運動会で来ていた若狭小学校で一報を聞き、市場までバイクを飛ばした。
ほぼ全焼で煙が充満する市場内に入り、火が燃え移らないよう仲間と共に木製の柱を倒していった。火が落ち着いた後、床の灰を水で洗い、若狭から大量の材木を運んだ。夕方、市場関係者の前に平良良松市長が現れ「災い転じて福となす」と励ましたという。
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夜を徹した復旧作業の末、翌朝には焼け跡にベニヤでこしらえた市場ができていた。「僕らが守らないと誰が守るか。いつだって命がけだ」。当時を振り返り、高良さんは言葉に力を込めて話す。
牧志公設市場は戦後の闇市から誕生した。1950年に今の場所で公設市場として開業したが、60年代になり衛生問題などが指摘され、約100メートル離れた場所(後の第二市場、現にぎわい広場)への移転計画が浮上した。
「水上店舗の花屋街が移転したが、客が来なくて失敗した。同じところに行くものか」。高良さんは移転に反対だった。既に建て替えは決まっていたが、第二市場への移転賛成派と移転反対派の対立が市場内で続いていた。その最中、火災が起きた。
当時、不審火が続いていた。平日の夜を警戒し、市場で見回り隊を結成した。市場で寝泊まりする人もいた。しかし火事は、日曜の真昼間に起きた。幸い死傷者は出なかったが、約200業者が焼け出された。
火災後に造られた開南の仮設市場を経て72年、新しい市場の建物が完成した。先にできた第二市場と同様に冷蔵ケースを導入。高良さんは「売り手の顔が客から見えるよう、隅から隅まで見渡せるように」と冷蔵ケースの高さを低くするよう市に頼んだ。
開業翌日、思わぬトラブルに見舞われる。保健所は流し台がない店舗の営業を認めないとした。高良さんたちは流し台や材料を探し回って一晩で設置し、翌日には許可が下り、営業にこぎつけた。
「市場のことを考えると、気が休まったことはない。毎日が戦争さ」と高良さん。一番の思い出は「母ちゃんと一緒だった時」。戦後のどさくさの中で巡り会い、二人三脚で歩んだ妻・和子さんとの日々を振り返った。
(田吹遥子)
(琉球新報 2019年2月19日掲載)