天皇制に揺れる心 両陛下の沖縄訪問に沖縄戦体験者 中山きくさん、平良啓子さん〈平成と沖縄〉


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 30日、天皇陛下が退位し、平成が終わる。陛下は皇太子時代から沖縄訪問を重ね、その数は11回に上る。国内で唯一、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄を皇后陛下とともに訪れ、亡くなった人々を慰霊してきた。戦争責任が問われた昭和天皇、沖縄に寄り添った平成の天皇。令和の始まりを前に、戦争体験者たちはそれぞれ天皇制や皇室に対する特別な思いを抱いている。

◇元白梅学徒隊の中山きくさん わだかまり解けた

両陛下と面会したことで、わだかまりが解けたという中山きくさん=25日、那覇市

 天皇皇后両陛下がおもむろに席から立ち上がられた。斜め後ろに身を翻すと深々と頭を下げた。その方角には白梅之塔があった。

 2012年11月、両陛下は第32回全国豊かな海づくり大会のため来県した。県立第二高等女学校から白梅学徒隊として沖縄戦に動員された中山きくさん(90)=那覇市=は沖縄平和祈念堂(糸満市)で両陛下と面会した。

 3畳ほどの部屋でテーブルを挟んで向かい合った。県内には九つの女子学徒隊があったこと、二度と戦争が起きないように体験を語り継いでいること…。中山さんの話に、陛下は深くうなずき「大変でしたね」「大切なことですよね」と述べたという。

 予定時間の10分がすぎたとき、美智子さまから白梅之塔の方角を尋ねられた。「あちらです」と言うと、両陛下は立ち上がった。

 昭和天皇の即位礼の日に生まれ、「菊」と名付けられた。重病で兵隊にならなかった父を憎み、自ら進んで学徒隊の一員になった。ただ、戦後は天皇制を守るために沖縄が捨て石にされたという思いが消えずにいた。焼失した戸籍を作り直すときに名前をひらがなの「きく」にしたのもそのためだ。

 慰霊のために沖縄を11回訪れた陛下。「面会して、本当に沖縄に心を寄せてくださっていることが分かった。わだかまりがすっと解けた」と振り返る。

◇対馬丸生存者の平良啓子さん 死んだ子の顔浮かぶ

死んだ子どもたちを思うと天皇制は認められないと語る平良啓子さん=26日、大宜味村

 今なお天皇陛下に厳しい感情を抱える人もいる。平良啓子さん(84)=大宜味村=は疎開する学童らを乗せた船「対馬丸」の生存者だ。1944年8月に起きた米海軍潜水艦の魚雷による撃沈から70年の2014年6月、両陛下が対馬丸記念館(那覇市)を訪れた。事前に関係者から来訪を聞いていたが、平良さんは行かなかった。

 学童ら約1500人が犠牲となった。「男の子の夢は陛下を守るための特攻隊や兵隊になること。女の子は従軍看護婦になることだった」。お国のため、天皇のために、と教え込まれた。国民学校では勉強よりも避難や武道の訓練の記憶ばかり。8秒間かけて頭を下げ、8秒間かけて起こす。登下校の校門で、教室で、1日に何度も最敬礼するのが決まりだった。

 生還後、沖縄戦も経験した。生かされているのではなく、生き抜いたと自覚する。「常に闘い。海上でも沖縄に帰ってからも、他人を犠牲にしなければ生きられなかった」。天皇のために生き、死んだ子どもたちの顔が目に浮かび、陛下には会わないと決めた。

 戦跡や被災地を慰問する陛下の姿は知っている。「人としての陛下は嫌いじゃない。でも、戦争に突き進んだのは天皇制があったから。会いに行かなかったことを後悔することはない」。そう語る眼光は鋭かった。(高田佳典)