「タケノコは中身汁に入れてもおいしいですよ」。第一牧志公設市場中央入り口の角にある山城こんぶ店で、客に調理法を教えるのは粟國和子さん(70)。切り干し大根にスンシー(メンマ)、ゆがいた昆布をかごに盛って売る。店構えは創業からほとんど変わらない。「市場にいるといろんな人に出会える。毎日同じところでも毎日が違うよ」とほほ笑む。
店は戦後、和子さんの祖母・山城ノブさんと母・友利アイ子さんが国頭村辺土名から出て始めた。公設市場が建つ前の牧志の道端で、隣人から分けてもらった3束の昆布が創業のきっかけだ。牧志公設市場ができた1950年代から、午前3時に農連市場で卸した後、公設市場とその近くの野菜市場に店を出した。
物心がついたときから市場にいた和子さん。小学生の頃は、昆布を湯がくためのまきを運ぶ。中学生に上がると、登校前に農連市場での卸作業を手伝った。高校生になると、放課後は公設市場の店番だ。「市場に生まれたら働くのが当たり前。おかげで今は全然苦じゃない」。長い時間を過ごす市場の人は家族同然。隣の店の人と披露宴の洋服を選びに行ったり、子どもを風呂に入れてもらったりしたこともあった。
客の対応に追われたノブさんとアイ子さんは、ありがとうも言わないぶっきらぼうな人だった。でも2人は必ず「うり、むっちけー(ほら、持って行け)」と言って、昆布などを別の袋に入れて渡した。シーブン(おまけ)だ。「なぜ客が来るのか疑問だったけど、そういうやり方なのかと教えられたね」。和子さんがしみじみと話す。
28年前、工場にいた和子さんの父・昌元さんが病に倒れた。昌元さんは昆布を湯がいたり、細く切ったり、下準備を一手に担う店の要だった。
3代目に名乗りを上げたのは、和子さんの長男で当時高校3年生だった智光さん(45)。「北部や中部から来る客もいる。店を閉めるわけにはいかない」と、専門学校への進学をやめて、店を継いだ。昌元さんの作業を見ていた智光さんは、力作業にも弱音を吐かなかった。
智光さんが跡を継いだことに、和子さんは「本当はほかにもやりたいことがあったはずなのに」と申し訳なさそうだ。今は「少しでもできることをしてあげたい」と智光さんを思い、手伝いとして店に立つ。
智光さんは公設市場の組合長を務める。「沖縄の食の文化を伝える場。ずっと残したい」。市場の未来を見据え、目を輝かせた。
(田吹遥子)
(2019年4月23日 琉球新報掲載)