太平洋戦争で一般住民をも巻き込んだ悲惨な地上戦となった沖縄戦では、20万人以上が亡くなり、県民の4人に1人が命を落とした。
歴代の沖縄県知事は、平和宣言で沖縄戦のその悲惨さや平和の尊さを訴えると同時に、戦後も米軍基地の過重負担の苦しみとその解消を求める文言を盛り込んできた。平和宣言の経緯とこれまでの知事の平和宣言を振り返る。
始まりは1977年
毎年6月23日、県主催の沖縄戦全戦没者追悼式で知事が読み上げる平和宣言。その始まりは1977年だった。沖縄戦終結から33年目、戦争で家族を亡くした遺族にとって、三十三回忌にあたる大事な年でさまざまな法要が予定されていた。「追悼式を単なる慰霊行事にせず、反戦平和の運動に発展させてほしい」。平和祈念資料館展示計画委員会の代表を務めていた中山良彦さんらが、当時の平良幸市知事に要請した。
同年6月23日、平良知事は初めての平和宣言で「我々の愛する郷土沖縄は激戦地となり、文字通り地獄の阿鼻(あび)叫喚の地獄絵を現出し、持てる物の全てと愛する肉親の多くを失った」と振り返った。その上で膨大な米軍基地が県民生活を阻害している現状を憂い、国連や日本国憲法の精神に基づき、沖縄を世界平和の中心地にしたいと宣言した。
平良知事の思いは西銘順治知事に引き継がれた。79年の平和宣言には「国際間の紛争が絶えず、戦争が世界からなくならない」と憂い、世界の恒久平和の確立へ向けた強い決意を盛り込んだ。
普天間の県外移設を要求した仲井真氏
大田昌秀知事は1996年4月、日米両政府が普天間飛行場の全面返還で合意すると、同年の平和宣言で「県内移転を前提にするなど多くの課題が残されている」と盛り込んだ。98年には「沖縄の米軍基地が国際紛争に利用される。一体県民はいつまでこのような不幸な事態を強いられなければならないのだろうか」といら立ちを示した。
稲嶺恵一知事は、米軍基地の整理縮小と日米地位協定の見直しを中心に盛り込んだ。仲井真弘多知事は、2期目の2011年から米軍普天間飛行場の県外移設要求を盛り込んだ。
仲井真氏を破り、辺野古新基地建設反対を掲げて14年に当選した翁長雄志知事は15年の平和宣言で「国民の自由、平等、民主主義が等しく保証されずして、平和の礎(いしずえ)を築くことはできない」として、辺野古移設作業の中止と計画の見直しを政府に強く求めた。
死去する直前の昨年の平和宣言にも辺野古反対と同時に「県民はアジア地域の発展と平和の実現に向けて役割を果たしていかなければいけない」と強い思いを込めた。
(中村万里子)
※2019年6月21日の記事を一部修正しました。