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ちょうネクタイでもてなす異彩の食堂?! 家族で守った「道頓堀」のにぎわいと優しさ〈まちぐゎーあちねー物語 変わる公設市場〉14 跡継ぎの挑戦(6)上原佐和美さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「道頓堀」のフロアを取り仕切る上原佐和美さん(中央)と従業員=5月23日、那覇市松尾の第一牧志公設市場

 第一牧志公設市場の2階は食堂街だ。沖縄らしい店名が多い中、異彩を放つのが「道頓堀」だ。マネジャーの上原佐和美さん(64)はちょうネクタイ姿で、これまた目立つ。常連客を見つけて「いつもの席をお取りします」と声を掛けたかと思えば、食事を終えた外国人客に「サンキューソーマッチ」と感謝する。常に周囲に目を配り、次々と従業員に指示を出す。

 佐和美さんの祖父・寛太郎さんは1953年ごろ、出稼ぎをしていた大阪から沖縄に引き揚げ、現那覇市松尾で旅館を始めた。55年ごろに食堂に転業して「道頓堀」と名付けた。食い倒れの街・大阪のようににぎわってほしい、という思いを込めた。佐和美さんの父・寛一さんと母・良子さんも大阪から引き揚げて食堂を手伝うようになった。

 寛一さん夫婦は60年ごろに独立し、八軒食堂通りで食堂を始めた。その後、公設市場の隣に移転。69年に公設市場が火事に見舞われた時には間一髪で焼失を免れた。「道頓堀」は68年に寛一さんの長男・隆さんが継ぎ「中央コーヒー店」と改称した。ポップコーンやアイスクリームなどを提供し若者の人気を集めた。

 72年に現公設市場が建設された際に寛一さんの食堂も入居。73年に隆さんも食堂経営に加わり、後に「道頓堀」の屋号を復活させた。公設市場に移った当初はおでんが中心だった。今はおでんは扱っていないが、てびちの煮付けは当時からの人気メニューだ。

 寛一さんと良子さんは働き者で欲がなかったという。佐和美さんは両親について「『一銭五厘のもうけがあればいい』と言っていた。お金のない人が来てもただで食べさせた」と振り返る。後に「親が食べさせてもらった」とお礼を言いに来た人もいる。

 佐和美さんは小学生の頃から店を手伝った。物を入れる木箱を解体してまきにするのが役目だった。大人になってからはフランス料理店で働いた。ちょうネクタイはその頃からのスタイルだ。40代後半に「道頓堀」に戻った。

 隆さんが亡くなった後、寛一さんの次男・恵造さん(62)が食堂の社長を継いだ。長女の寛美さん(72)、次女の好美さん(69)は四女の佐和美さんと共にフロアに立つ。店が公設市場に移ってきた時は従業員を含め3人で切り盛りしていたが、今では32人が働く大所帯だ。佐和美さんは「活気のある店にしたい。毎日、カーニバルに行くような気持ちでやっている」と語る。

 「道頓堀」も16日に現市場での営業を終え、仮設市場へ移転して7月1日に営業を再開する。「寂しくなるね」と言う常連もいるが、佐和美さんはこう答えている。「寂しくないですよ。また新しいお店でお会いしましょう」

(伊佐尚記)

(2019年6月4日 琉球新報掲載)