2004年8月13日午後2時すぎ。宜野湾市の沖縄国際大学の向かいにある宜野湾保育所では、園児たちがゴザの上で川の字になり、すやすやと寝息を立てていた。「ドーン」。穏やかな昼寝の時間に突然襲いかかった鈍い音と地響き。給食のおばさんが調理器具のおたまじゃくしと鍋を激しく打ち鳴らし、「起きてください」と叫んだ。
米軍普天間飛行場を離陸したヘリが沖国大に墜落した15年前のあの日。宜野湾市で生まれ育った宮里野乃さん(19)=沖縄国際大学2年=は宜野湾保育所に通う4歳の園児だった。おびえて泣く子、訳も分からず立ち尽くす子。保育所職員も何が起きたのか把握できず、皆がパニックになっていたと記憶する。
母は大学近くの自宅ベランダで洗濯物を干していた。カラカラと扇風機の羽が絡まるような異音。空に目を向けるとヘリが保育所の方向に落ち、炎上して火柱が見えた。「娘が血を流しているかもしれない」。心配した母は保育所に駆け付けた。後に母から聞いた話では、宮里さんは保育所職員に抱かれ、あやされていたという。
「あと少しずれて保育所に落ちていたら死んでいたかもしれない。怖かった」と振り返る。その後通った嘉数中学校や大学では、授業中に戦闘機やヘリなどが飛ぶと授業が中断したり、先生の話が聞きづらくなったりした。一方で「基地は生まれた時からずっとあり、当たり前の風景になっている」とも話す。基地内で働く親戚もいる。「普天間飛行場は早く返還してほしいが、名護市辺野古への移設は賛成、反対と言いにくい」。基地の危険性を辺野古に押し付けるようで、後ろめたさも感じる。
幼い日の衝撃的な体験は死生観に大きな影響を与えている。「命はいつなくなってもおかしくない」。だからこそ、命に関わる仕事に就きたいと考えるようになった。「亡くなった人をきちんと見送りたい」との思いを胸に、将来は納棺師などの仕事を目指している。
事故について大学図書館の資料室で調べ、授業でも話を聞くが、「何が原因で落ちたのかなど知らないことも多い」と感じている。事故を知らない世代が増え、記憶が風化していく危機感もある。
それでも自分が体験し、調べたことは確実に伝えられると実感している。事故後に生まれた小学6年生の弟(12)に事故のことを教えると「知らなかった」と答え、関心を持って聞いてくれた。「伝えられることはほかの人にも伝え、継承していきたい」。墜落現場であるアカギの前で、思いを新たにした。
(金良孝矢)
沖縄国際大学にCH53Dヘリコプターが墜落した事故から13日で15年となる。普天間飛行場所属機による墜落や落下物などのトラブルは後を絶たず、危険性は除去されていない。宜野湾市民らの我慢が限界に達する中、墜落の記憶が継承されていない懸念もある。市民や大学関係者の思いを紹介する。