一部の犠牲やむを得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官「拝謁記」


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 誠二
田島道治・初代宮内庁長官が記した「拝謁記」

 【東京】初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」が19日、公開された。全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。

 専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。

昭和天皇

 田島元長官の遺族から史料提供を受けたNHKが19日、遺族の意向を踏まえ一部を公開した。

 それによると、対日講和条約発効により琉球諸島が日本から切り離され米統治となった一方、日本が独立した翌年の53年11月24日の拝謁で昭和天皇は沖縄への具体的言及はないものの基地問題について発言した。

 昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。

 同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。

 51年1月24日には「(沖縄不返還のマッカーサー方針について)そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事でたとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)ニなるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」とも述べていた。

 田島氏は48年、宮内庁の前身である宮内府長官に就任、49年から53年まで宮内庁長官を務めた。在任中、昭和天皇との会話の内容や様子を手帳やノート計18冊に書き留めていた。