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「諦めたくない」 赤字続くブラジルの邦字新聞にかける県系若手記者の思い きょう「世界のウチナーンチュの日」


「諦めたくない」 赤字続くブラジルの邦字新聞にかける県系若手記者の思い きょう「世界のウチナーンチュの日」 サンパウロ市内ジャパンハウスで取材する仲村渠アンドレさん(左)=2023年
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

 10月30日は世界のウチナーンチュの日。世界中に広がるウチナーネットワークの継承・発展を願い、ウチナーンチュであることを祝う日だ。多国籍国家のブラジルには世界最大の日系人コミュニティが存在し、多くのウチナーンチュが活躍する。そのようなブラジルで100年間以上、日本人や日系人向けに日本語で情報を発信してきた邦字新聞。読者は日本語が読める日系1世が中心で、その平均年齢は80歳超と言われている。そのため購読者数は減少の一途をたどる。

 ブラジル唯一の邦字新聞「ブラジル日報」は赤字で廃刊した「ニッケイ新聞」の後継として2022年1月に創刊した。日本の実業家の出資を受け発行を続けているが、経営は厳しい。

 「邦字新聞を諦めたくない」。入社2年目の新人記者・仲村渠アンドレさん(25)は、社の存続をかけ、ポルトガル語で日本の観光情報を発信するサイトを立ち上げるべく、今月10日から約3週間、東京や大阪、広島などの観光地を巡っている。「ブラジルの生の情報を日本語で発信できる邦字新聞の役割は大きい。ブラジルと日本と日系社会の距離を縮める役割を担いたい」と力強く語る。

「未知なる祖国」での衝撃

13年ぶりに生まれ育った山梨県韮崎市を訪れた仲村渠アンドレさん=2023年10月

 アンドレさんの父方の祖父母は沖縄県出身だ。祖父・仲村渠信吉さんの家族は小禄村大嶺出身。1917年にブラジルのサンパウロ州モジアナ地方に移住し、信吉さんが生まれた。祖母・上原千代さんも小禄村大嶺の出身で1934年に生後10カ月で家族とともにサンパウロ州パラグアス・パウリスタに移住した。

 時は流れ1995年、父・仲村渠エジソン信一さんはイタリア系ブラジル人の母・マリア・ド・カルモ・ボギニオッチ・ナカンダカリさん、長男でアンドレさんの兄に当たるダニエルさん(当時1歳)とともに出稼ぎのため日本に渡る。両親は山梨県韮崎市の工場に勤務し、そこでアンドレさんと妹・マリアナさんが生まれた。

 日本で育ったきょうだいに転機が訪れたのは2009年。リーマンショックの影響で不況が続く中、両親は日系人出稼ぎ者への帰国支援事業を利用しブラジルへの帰国を決断。きょうだいは「未知なる祖国」へ戻ることとなった。

 アンドレさんは「ずっと日本で育ってきたから、え?帰るの?って感じでした。衝撃は大きかったです」と振り返る。

 帰国前、両親がブラジルを紹介する雑誌を見せてくれた。強く印象に残ったのは美しい海岸線とサッカーを楽しむ少年の写真。しかし移り住んだサンパウロ州バウル市に海岸はなく、治安が悪いため子どもが外で遊ぶ姿もなかった。街はごみであふれ、日本では見たことがなかったホームレスもいた。「想像と全く違っていてこれも衝撃でした。どこに来ちゃったんだろうと思いましたね」

2009年に撮影した家族写真。左からアンドレさん、母・マリアさんを抱える兄・ダニエルさん、妹・マリアナさん(仲村渠アンドレさん提供)

 「日本ではブラジル人と言われてたから、ブラジルに帰ると言われたときに、地元に戻るんだなと思ってた部分もあった。でもポルトガル語は話せないし、ここでは日本人と言われる。人見知りだったこともあり、友だちもできず全くなじめませんでした」

 ブラジルへの反発と日本への思いが募るアンドレさんと兄のダニエルさん。15年ぶりにブラジルに戻った両親も生活に追われ、居場所作りに苦労していた。価値観のすれ違いから、家庭内の溝は深まっていった。

 「ここは自分たちの居場所じゃない。いつか日本に2人で戻って暮らそうというのが、兄と僕の目標でした。だからあまり言葉の勉強せず、深い人間関係も作らなかった」

 しかし2014年、兄のダニエルさんはがんを患い、19歳の若さで亡くなってしまう。アンドレさんは当時16歳。日本にいたときから、夜勤の多かった両親に代わり弟妹を支えてきた兄のダニエルさんは、アンドレさんにとって親代わりともいうべき存在だった。

 「これからどうしようか考えたとき、兄が僕にしてくれたように妹を大切にしよう、彼女の道標になろうと思いました。そのためにブラジルで生きる決意をしました」。

大学中退、試行錯誤の中で

 サンパウロ州立大学(UNESP)に進学し、物理学を専攻したアンドレさん。将来の目標は研究者か起業家。研究者だと「会いたい人に会いたいときに会えないかもしれない」と起業の道を選んだ。

 「起業するなら大学にいるより実際に動いたほうがいい」と考え、2年生で大学を中退。日本語教師として活動していたアンドレさんは、日本語を中心にブラジルで人気のあるアジア系の言語を学ぶことができる言語学校の設立を決意する。教材は作れたが、体系化するには仲間が必要だった。「ちょうどコロナ禍に入ったばかりで仲間も見つからず、1人で試行錯誤していた」。

 起業の道を模索する中、日本語教師グループのチャットアプリで邦字新聞の求人を見つけた。情報の扱い方を学び、新しい人とつながりができるかもしれない。「直接起業ではないけど、急がば回れ。逆にそこに近づく道かもしれない」。応募のメールを送ったら採用された。

2022年1月に創刊したブラジル唯一の邦字新聞「ブラジル日報」。姉妹紙に週刊のポルトガル語新聞「NIPPON ja」がある(深沢正雪さん提供)

 求人情報を見るまで邦字新聞の存在すら知らなかったというアンドレさん。両親もブラジルの日系社会との関わりは薄く、移住したバウル市の日系社会は保守的だった。一度友人に頼まれて日本語教師として日系人の集まりに参加したが、「日本人に見えない」と門前払いされた。「ショックでしたね。この経験もあって、日系社会で何かしようとは考えてもいなかった」と振り返る。

 2022年3月、創刊したばかりのブラジル日報の記者となった。担当は日系社会面。同僚も日本人と日系人が多かった。日本で育ちブラジルで生きる同世代もいた。「ブラジルの中に、こんなにありのままの自分が表現できる場所があったのかと衝撃を受けました」

 記者として日系社会の取材を重ね、歴史を学ぶなかで、自分が日本移民の血だけでなく価値観や考え方を受け継ぐ1人なのだと感じるようになったという。「今までどこにも当てはまらなかった1つのピースが大きな歴史の中ではまり、自分はここにいるんだということがはっきりとした」。

ウチナーンチュ、家族だよ

 入社したばかりの頃、沖縄県人会の取材に行った。手渡した「仲村渠」姓の名刺にルーツを問う声が上がった。「沖縄の血を引いているけど山梨県生まれで、これまで沖縄とは全く接点がなかった」と説明するアンドレさんに、「そんなことは関係ないよ。君は血を受け継ぐウチナーンチュで家族だよ」と迎え入れてくれた。

 県人会の集いの最後に、参加者はカチャーシーを踊った。初めて聞く心地よい音色、心臓に響く太鼓の音。「家族だ」だと言われたうれしさと、沖縄について何も知らない悔しさ、何もしていないのに受け入れられていいのかという葛藤…。「目を潤わせながら会場でぽつんと1人、踊るウチナーンチュを見ていました」。この体験がルーツを考えるきっかけとなった。

 「祖先はどこから来て、何をして、そんな生活を送ったのか。そして僕自身がどのような歴史の上で生きているのか知りたい」。これまで特に気にしていなかった自らのルーツをたどるため親戚に話を聞いたり、沖縄県系移民渡航記録データベースで調べたりもした。

 「日系社会の中でも沖縄は特別。海外に出て世代交代しても、家族だという意識がとても強いと聞く。実際僕が沖縄に行ったらどうなるんだろう。すごく興味があります」と笑う。

「感性は日本人寄り」の悩み

 日本と同様、ブラジルも紙の新聞離れは著しい。日系人のために日本語で情報を発信してきたブラジル日報も生き残りを模索している。今回、ブラジル人向けに日本観光情報サイトを作ろうと奔走するアンドレさんだが悩みもある。

 11歳まで日本で育ったアンドレさんは、取材相手の日系人に「顔はブラジル人だけど心は日本人」と言われるほど、感性や考え方は日本人寄り。同じ境遇の同僚と「ブラジルじゃ何がウケるか分からない」と口をそろえる。

ブラジル日報若手記者で作っている動画。南米最大級の沖縄祭りをリポートする仲村渠アンドレさん(YouTube「Repórteres Chonmaguê」より)

 一方で、日本に住む日本人向けに日本語でブラジルの情報を発信することにも力を入れている。親日家が多いブラジルでは日本について発信する人は多い。逆にブラジルの情報は意外と日本で知られていない。「まずはそのギャップを埋めたい」と力を込める。

 「ブラジルにも日本の大手新聞社の記者が何人も来ている。でも現地の日本語新聞が伝える情報には違う価値がある。何より自分が好きになったブラジルをもっと日本の人に知ってほしいんです」と話す。

 そのためにInstagramやYouTubeなども積極的に活用する。「まずは知ってもらうこと。そのためにはちょっとふざけたり路線を外したりするのも、大切だと思ってます」と笑顔を見せる。

「日本の人、聞こえてますか-」で始まるブラジルを紹介する動画。編集部内でチョコラーメンを作っている。奥から顔をのぞかせるのか深沢正雪編集長(インスタグラム「burajiru_kisya_out」より)

 新たな取り組みに挑戦し続けるアンドレさんに対し、「ブラジル日報」の深沢正雪編集長からの期待も大きい。

 「日本語で人格形成した世代がほとんどブラジルにいない中、日本で生まれ育った彼は貴重な存在。国籍こそブラジルでも心は沖縄にルーツを持つ山梨県人で、将来の日本とブラジルをつなぐ貴重な人材だ」と絶賛。「私が定年退職する10年後に、彼にブラジル日報の編集長になってほしい」と願う。

「あいのこ」新たな居場所

「あいのこ会」を結成した日に撮った記念写真。忘年会とクリスマスパーティーを兼ねた集まりで、みんなでプレゼント交換もした=2022年12月、サンパウロ市

 入社2年目のアンドレさんが最も印象に残っている記事は2023年6月に書いた、自身が主宰を務める「あいのこ会」結成の報告記事だ。

 「あいのこ」を混血や異なる特徴を持つ親から生まれた子、そして二つの特性を備え、どこにも属さない存在と定義。アンドレさんは、両親がデカセギで日本に行きブラジルに戻ってきた「デカセギ帰伯子弟」が交流する場として「あいのこ会」を結成した。

 アンドレさんと同様、リーマンショックで家族とともにブラジルに戻り、「未知なる祖国」で途方に暮れながらも懸命に適応していった帰伯子弟の中には「ありのままの自分を出せない」「価値観が共有できない」「親子間でもすれ違ってしまう」などと悩む人も少なくない。

 「まずはブラジルの日系社会に、そして日本社会にデカセギ帰伯子弟の存在を伝えたい。そして何より、ブラジル全土にいる当事者に、同じ境遇の仲間がいて居場所となりうる会ができたことを伝えたい」と力を込めた。

(熊谷樹)


【関連リンク】

「ブラジル日報」ホームページ

「ブラジル日報」若手記者によるYouTubeチャンネル「Repórteres Chonmaguê」

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