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上原米子さんの記憶 「勇気ある言葉」に思いを致す <おきなわ巡考記>


上原米子さんの記憶 「勇気ある言葉」に思いを致す <おきなわ巡考記>
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 今月11日、96歳で亡くなられた上原米子さんについて書きます。

 県立第三高等女学校の「なごらん学徒隊」の一員として沖縄戦に動員され、その体験を語り続けた人でした。沖縄各地で戦跡を巡っている私も、本部町の野戦病院跡などで何回か証言の場に立ち会いました。背筋をすっと伸ばして丁寧に説明を重ねる。そんな凜(りん)とした姿が今でも目に焼き付いています。

 上原さんは語る時、いつも自作の絵を携えていました。言葉に加え、画用紙に描かれた情景も、細部に至るまで具体的です。砲弾や銃火の音、負傷兵が「手術」で手足を切断される時のうめき声。絵の中から聞こえるようでした。動かない絵ですが、その分、78年の時空を超えた世界に想像の翼が広がります。

 証言のうち、次の記憶が印象的でした。

 戦況悪化で野戦病院を撤退して逃げ込んだ山中で、砲撃を受けました。その破片が、右足の薬指と小指の間に突き刺さり、地下足袋を脱ぐと、血が噴き出してきました。しばらくして引率の衛生班長が現れ、動けない上原さんの姿を見て、「死ぬしかないから、一緒に死のう」と手榴弾を取り出しました。その時です。そばにいた同級生が班長の腕をつかんで、こう言ったのです。「そんなに死にたかったら、どこかに行って一人で死んでください」。この勇気ある言葉が、「自決」の回避につながりました。

 上原さんは、同級生を「命の恩人」と話しました。同級生はアルゼンチン移民の2世で、母国に帰ろうとする強い意思を持ち、日本の軍の論理に巻き込まれて死ぬわけにいかないと必死の思いだったのでしょう。体験を語り続ける上原さんも、勇気の意味がきちんと分かった人でした。

自作の絵で沖縄戦の体験を証言する上原米子さん=2016年6月11日(藤原健撮影)

 上原さんの訃報に新聞紙面で接して、まず頭に浮かんだのは、この挿話です。そして「戦う覚悟」と言い放った政権党の有力者の言葉に、思いが及びました。その覚悟には「殺す覚悟」「死ぬ覚悟」が次に待っているはずです。こうした空気が横行し、住民を染め上げていたのが戦時の日本でした。

 今年、沖縄戦体験を語り続けた人の死が続きます。白梅学徒隊の中山きくさん、ひめゆり学徒隊の本村つるさん、対馬丸から生還した平良啓子さん。つい先日の25日には、「全学徒隊の碑」建立に尽力された上原はつ子さんも。

 「戦争は絶対に起こしてはなりません。起こさせてもなりません」。この方々の心を現況への警告として受け止め直し、新聞人の一人として戦争につながる一切を拒否します。それが「国策」にのしかかられて戦争を扇動したかつての姿を猛省して戦後の出発をした新聞の役割である、と強く思います。

 (藤原健、本紙客員編集委員、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)


 今回は上原米子さんへの弔意を込め、写真を載せ、文体も「です・ます調」にしました。