米海兵隊による県道104号越え実弾砲撃演習の阻止に向け、恩納村喜瀬武原区公民館で抗議集会が開かれてから12日で50年を迎える。後に喜瀬武原闘争とも呼ばれる一連の抗議行動に初期から参加した仲村善幸さん(76)=当時北部地区労事務局員、現ヘリ基地反対協議会共同代表=は「(会場に)怒りが満ちていたのでこれなら絶対止められる、あるいはこれでしか止められないという自信みたいなものもあった」と大会を振り返る。
米軍の実弾演習は日本復帰前から実施されていた。復帰で演習が事前通告されるようになったことで、住民は県道越えの演習であることを初めて知り「いつ事故が起きるか分からないことに対するショックと怒りがあり、地元の人たちが反対を始めた」という。
喜瀬武原は「復帰後の闘いの出発点」
当時の琉球新報は一方的な県道封鎖に対する住民の怒りが「爆発」し、全住民が仕事を休んで抗議集会に参加することが前日の緊急区民総会で決まったと報じている。報道によると、集会は区長やPTA会長、児童・生徒代表らが登壇して演習に抗議した。喜瀬武原小中学校では同日、県道封鎖に対する特別授業が行われ、中学3年生は「私たちの自由権」と題して討論した。
抗議活動は74年以降、演習に関わる山に登って旗を振り、演習を阻止する実力行使に発展した。仲村さんは月に1~2回の演習ごとに山へ向かった。76年に負傷者が出た際は下山時に現場を目撃した。10メートル四方の穴ができ、一定の高さから木がなぎ倒されて空が見え「そこにいたら完全に死んでいた」と当時の恐怖を語る。数人単位の集団で登山中、砲弾の音を聞いたこともあり「集団だから持ちこたえられたが、1人だったら怖くて引き返す」と決死の行動を振り返った。
米軍キャンプ・ハンセンでの砲撃訓練は97年まで続いた。仲村さんは「喜瀬武原の行動が復帰後の闘いの、一つの出発点になった」と意義を強調し、沖縄を取り巻く基地の状況は「ますます危ない」と危機感を示す。島ぐるみで演習中止を訴えた喜瀬武原の抗議行動を振り返り「今は(県民の)結束する力が弱まっている。NOはNOと県民がまとまって意思表示しないと(基地強化は)止められない」と訴える。
(武井悠)
喜瀬武原闘争 県道104号越えの、米軍の実弾砲撃演習を阻止するための住民闘争。金武岳やブート岳など恩納連山にりゅう弾砲が打ち込まれ、恩納村喜瀬武原区の住民や県内外の支援団体は演習中止を求めた。1974年2月、県道で阻止行動中の参加者の一部が着弾地の山に登り、演習を止めた。76年7月には参加者1人が米軍の砲弾の破片で重傷を負った。同年9月には刑事特別法による逮捕者も出た。
(写真説明:県道104号線越米軍演習に抗議する喜瀬武原区民=1973年12月12日、恩納村喜瀬武原)