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反戦運動 自衛隊配備 重なる与那国 「危険性、沖縄見れば分かる」<奄美の今・これから~復帰70年>3


反戦運動 自衛隊配備 重なる与那国 「危険性、沖縄見れば分かる」<奄美の今・これから~復帰70年>3 自衛隊の駐屯地を見つめながら「戦争にあつながるものは何もいらない」と語る城村典文さん=15日、鹿児島県奄美市
この記事を書いた人 Avatar photo 新垣 若菜

 青空を切り裂くように飛ぶ航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」に歓声が上がった。2019年3月31日、陸上自衛隊の奄美駐屯地の開設を祝う航空ショーで、奄美市名瀬港周辺は多くの市民でごった返した。前日には瀬戸内町で分屯地の開設パレードが行われ、住民の手の日の丸が揺れた。歓迎ムード一色の街の様子を横目に城村典文さん(71)=奄美市=は「戦争につながるものは何もいらない」と強く感じていた。

 1953年の復帰当時は1歳。記憶はほとんどない。8年間統治した米軍について両親から聞いたこともない。それゆえ自身も軍隊に対する特別なこだわりはなかった。ただ自然豊かな奄美の地に「基地はいらない」との感情だけはあった。

 転機となったのは普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」と掲げた民主党政権の誕生。2010年、徳之島が新たな移設候補地として上がった。「米軍基地が危険なことは沖縄を見れば分かる」。反戦への意識が強くなった。辺野古新基地建設に反対する運動も参加するようになった。

 14年、奄美市と瀬戸内町に国から自衛隊駐留の要請があった。市は活性化を理由に受け入れ、瀬戸内町も過疎化対策として誘致を進めた。説明会はそれぞれたったの一回だった。反戦の市民団体を立ち上げ、反対を訴え続けた。島出身者には自衛隊関係者も多く、声の上げづらさも感じたが、思いは揺らがなかった。

 配備から4年。活性化からは遠く、人口は減少の一途をたどる。同じように人口増を願い、駐屯地を受け入れた与那国町と状況は似ている。市駐屯地は昨年度、米軍利用が合意され島で日米共同演習も実施された。この演習で飛来していたオスプレイが11月に屋久島沖で墜落事故を起こしたばかり。「危険なものを飛ばして、どう安全を、住民を守るというのか」と憤る。

 先日、徳之島に渡り仲間たちと横断幕を掲げ演習へ抗議していたら、住民から「目障りだ」との声を投げつけられた。「復帰とは平和主義の憲法の下に帰ることだったはずなのに、70年たってまた危険な足音が近づいていることに島民は気づいているのだろうか、気づいてほしい」

(新垣若菜)

奄美の今