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「砂場を見ると思い出す。見ないように…」爆発、血まみれ…聖マタイ不発弾事故から50年 沖縄


「砂場を見ると思い出す。見ないように…」爆発、血まみれ…聖マタイ不発弾事故から50年 沖縄 不発弾爆発事故当日の様子を語る(右から)田島勝さん、幸地長昌さん、松田惠子さん=1日、豊見城市の小禄聖マタイ教会(ジャン松元撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 幼児を含む4人の死者を出した聖マタイ幼稚園不発弾爆発事故から50年を迎えるに当たり、事故現場に居合わせた元教諭ら3人が当時の様子を証言した。園では長い間、事故の詳細について語られることはほとんどなく、前園長の真栄城美子さん(70)は「事故を思い出す子がいたこともあり、園では事故のことを一言も言ってはいけない雰囲気だった」と振り返る。

 事故当時、沖縄工業高校の定時制に通っていた田島勝さん(68)はアルバイトのさなかに事故を目撃した。約100メートル離れた場所にいた田島さんの目に飛び込んできたのは、生き埋めになった幼児や全身血まみれの作業員らで、「まるで地獄絵図だった」

 田島さんもすぐさま救助活動に加わった。事故の記憶は今も鮮明で、田島さんをさいなみ続けてきた。

 事故現場に近付けず、眠るたびにうなされる日が10年ほど続き、事故から数年後に結婚した妻にも何年も事故のことを言えなかった。事故現場を訪れたのは事故から33年後だった。

 昨年3月2日、田島さんは事故後初めて聖マタイ幼稚園を訪れ、手を合わせた。その数カ月前の正月には2人の子どもと4人の孫に初めて事故のことを打ち明けた。「平和の尊さ、戦争は絶対にだめだということを伝えたかった」と語る。

 「事故が起きた50年前から毎日、祈りをささげている。平和な世の中が一番。わたしは死ぬまで祈り続ける」

 聖マタイ幼稚園の教諭だった松田惠子さん(87)は、今も亡くなった女児を思い浮かべる。「砂場を見ると思い出す。砂場を見ないようにして公園を歩く」と語る。

 事故当日は同園でひな祭りに合わせたお遊戯会が開催され、園児らはステージで発表をしていた。園児らは建物の中にいたが、園児である姉の発表を見終わった女児は、外に出て砂場で遊んでいた。爆発後、大きな音が鳴り響き、女児は砂に埋もれて即死状態だった。

 舞台下で発表を見ていた子どもたちも全員ステージに上げて、建物の外に出ないように呼びかけた。ただ、子を連れて窓から逃げる保護者もいて園内は混乱状態に陥ったという。

 松田さんは「保育室も廊下も全部砂でどろんこになっていた。普段の日だったら子どもたちはバスを待っている時間。お遊戯会で室内にいて良かった」と振り返った。

 事故が起こった時の子どもたちの様子や、事故後、登園が再開したころなど、事故の衝撃の強さから松田さんの記憶は曖昧な部分も多い。「記憶から逃げてきた。二度とこういった事故があってはならない」と語り、目を伏せた。

 送迎バスの運転手をしていた幸地長昌さん(93)は、事故当時園内にいた。「『バーン』と爆発音がして真っ黒い煙が上がった」と振り返る。爆発に驚いて窓を開けると煙が入って来た。しばらくして煙が収まると土でいっぱいになった運動場が見えた。泥だらけの子どもを救出する様子も目撃した。

 事故から50年を迎え、「最初から磁気探査していたら安全だったんじゃないか。子どもたちの安全や幸せをいつも祈っている」と語った。

 (吉田健一、上江洲仁美)