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米軍の「殺人演習」体を張って阻止 「原告」の気持ちで立った法廷 <不条理に抗う>6 喜瀬武原闘争


米軍の「殺人演習」体を張って阻止 「原告」の気持ちで立った法廷 <不条理に抗う>6 喜瀬武原闘争 住民らの反対を押し切り行われた県道104号線越え実弾射撃訓練=1976年7月1日、金武村(当時)
この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 1976年9月17日は月明かりの夜だった。3歳になる娘が急に歯が痛いと起き出した。同じ頃、父親の糸数隆さん(75)=当時27歳=は那覇市の自宅から離れた恩納村の山中で逮捕されていた。喜瀬武原の県道104号越えの米軍実弾砲撃訓練を阻止しようと、着弾地の頂上を目指していた。訓練中は県道が封鎖され、長時間にわたって、生活の糧となる農作業もできなくなるなど、住民生活に影響を及ぼしていた。

 妻の慶子さん(76)は当時29歳。平和バスガイドとして仕事を始めた頃だ。隆さんが出掛けたこの日、慶子さんは胸騒ぎがした。「逮捕時刻は娘が起きたのと同時刻。娘も何か感じていたのかもしれない」

刑特法裁判の判決に抗議して法廷から機動隊に引きずり出される糸数隆さん(1980年5月3日付本紙より)

 当時の隆さんは沖縄タイムスの記者で、報道各社の労組で組織するマスコミ労働組合協議会の一員として「喜瀬武原闘争」の阻止団に加わった。日本復帰前の70年に新聞社に入社し、世替わりのうねりを肌身で感じていた。「自分たちの力で社会を変えられるのではという期待があった」

 体を張った阻止行動への参加は「県民の共感があったから」だった。「殺人演習」と呼ばれた、危険な米軍の訓練に対する県民の怒りに後押しされた。76年7月には、着弾地で阻止行動に参加した学生が、爆風とともに飛んできた砲弾の破片で重傷を負った。

 阻止団を排除しようと県警機動隊が投入された。隆さんは仲間とはぐれ、機動隊員と密林で鉢合わせた。9月17日夜から18日朝にかけて隆さんを含め4人が逮捕された。米軍施設区域内に立ち入ったとして日米地位協定に基づく刑事特別措置法(刑特法)が初適用された。沖縄が日本に復帰してから4年。当時の報道は、刑特法違反「第1号」と報じた。

 逮捕後、隆さんは20日間留置され取り調べを受けたが黙秘を貫いた。拘留中に慶子さんは「家族は大丈夫です」と毎日手紙を送った。家族を案じた隆さんの信念が揺さぶられないためだった。家宅捜索にもひるまなかった。

喜瀬武原闘争のさなかに逮捕された当時を振り返る糸数隆さん(左)と妻慶子さん=4月30日、那覇市久茂地

 慶子さんは隆さんの逮捕後に他の3人の家族と知り合った。支援者から「闘い続けるには家族の支えが必要だ」と言われていた。定期的に勉強会や懇親を重ねた。

 被告人として法廷に立つ隆さんだが、気持ちは「原告」だった。意見陳述で主張した。「県民の心を無視して広大な基地を提供している日本政府と、それを使用して軍事演習を繰り返す米軍を、県民の名において逆に告発し、その不当性を訴える原告の立場に立つ」

 那覇地裁の判決は懲役3カ月執行猶予1年。量刑に隆さんら4人は「デタラメだ」と抗議し立ち上がると機動隊が入り込んだ。裁判官は4人に退廷を命じ、被告人のいない法廷で判決文が読み上げられた。弁護団は控訴したが、83年に高裁那覇支部は棄却した。

 いま、隆さんは新基地建設が進む名護市辺野古の座り込み現場に通う。慶子さんは県議や国会議員を経て、平和バスガイドの活動を再開した。現場に立ち続ける2人は口をそろえる。「喜瀬武原闘争は抵抗の原点。過去の出来事ではなく、今も続く沖縄の不条理そのものだ」(慶田城七瀬)


<用語>喜瀬武原闘争

 県道104号を越えて金武岳やブート岳など恩納連山にりゅう弾砲を打ち込む米軍の実弾射撃訓練に対する阻止闘争。恩納村喜瀬武原区の住民や県内外の支援団体は中止を求めた。日本復帰後の1973年から97年まで県道104号を越えた実弾射撃訓練は180回実施された。