1945年の沖縄戦で軍事的中枢だった首里城地下の第32軍司令部壕の第2・3坑道を、県はこのほど報道各社に公開した。戦争体験者や教員らは、県民に大きな犠牲を強いた沖縄戦を伝える語り部として、壕の保存・公開への期待を高めている。
元一中鉄血勤皇隊の与座章健さん(95)は司令部壕の構築に動員された。掘削で出た土砂をトロッコで外に運び出した。大変だったのは、トロッコいっぱいの土砂をスコップですくい、放り投げる作業。沖縄戦のさなかも突貫工事は続き、激しい艦砲射撃と米軍機の攻撃の中、「一刻も早く」と土をかき出した。「それでも小一時間はかかった」。近くに爆弾が落ち、急いで壕内に飛び込んだこともあった。
大勢の学友を失った与座さんは「戦争の抑止力が、かえって戦争を誘発してきた歴史の事実を忘れず、この惨劇を繰り返してはならない」と力を込める。“国を守る”と喧伝(けんでん)し住民に犠牲を強いた第32軍が拠点にした司令部壕。「作業に当たった人も亡くなった」と寂しそうにしつつ、「ちゃんと残しておくべきでしょうね」と語った。
「第32軍司令部壕保存・公開を求める会」会長の瀬名波栄喜さん(95)は、県が95年に設置した「第32軍司令部壕保存・公開検討委員会」の委員長を務め、96年に第3坑道に入った。公開された映像を見て「つるはしの跡、注射針など臨場感があったことを思い出した」「人は亡くなるが32軍壕は永遠に残る沖縄戦の語り部になり得る」と強調する。
同会の垣花豊順副会長(90)は「戦争を賛美せず、命どぅ宝・平和・自立の精神を学ぶ場になるように」と望む。県は、本年度に策定する基本計画で壕の具体的な公開範囲や方法を決める。垣花さんは「日本軍が南部撤退時に壕を爆破した、ありのままを見せる方がいい」と話す。
平和教育に取り組む首里高教諭の宮城通就(みちなり)さん(56)は「住民目線で、軍隊の理論も合わせて考えることで、悲惨な沖縄戦がなぜ起こったのかが見えてくる。『軍隊は住民を守らない』という沖縄戦の教訓がどのように生まれたか理解できるのでは」と語り、さまざまな視点で沖縄戦を検証する必要性を指摘した。
県は4月25日と5月12日に代表撮影で壕内部の立ち入りを許可し、報道の代表社が写真と映像の撮影を行った。撮影された写真と映像は今月22日に公開された。この日は、79年前に沖縄戦を指揮し、首里城地下の司令部壕を拠点にしていた第32軍司令部が「南部撤退」を決めた日でもある。この決定によって、沖縄本島南部に避難していた大勢の住民の犠牲をさらに拡大させることにつながった。
(中村万里子、吉田健一)