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衣の下の鎧現れる 「旧軍」へのすり寄りは愚行 半田滋 <日本軍と自衛隊 牛島司令官 辞世の句>上


衣の下の鎧現れる 「旧軍」へのすり寄りは愚行 半田滋 <日本軍と自衛隊 牛島司令官 辞世の句>上 陸上自衛隊第15旅団の公式ホームページに掲載されている牛島満司令官の辞世の句。辞世の句の前には「沖縄作戦において風土・郷土防衛のため散華された軍官民20余万の英霊に対し、この決意を誓うとともに御霊安かれと祈念する次第である」という桑江良逢臨時第1混成郡長の訓示が載っている
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 那覇市に駐屯する陸上自衛隊第15旅団が公式ホームページで日本軍第32軍牛島満司令官の辞世の句を掲載している件を巡り、防衛政策や沖縄戦史に精通する識者に、同事案の問題点について寄稿してもらった。

 自衛隊と日本軍が別組織であることは当たり前であり、広く知られている。日本軍について大日本帝国憲法第11条は「天皇は陸海軍を統帥す」と定め、軍の存在を当然視した上で「天皇の軍隊」であることを明記した。兵士は「天皇陛下のため」に命を捧げるよう求められ、太平洋戦争で230万人もの戦死者を出した。

 一方、日本国憲法には軍はもちろん、自衛隊の文字もない。政府は、前文の平和的生存権や第13条の幸福追求権を組み合わせて、自衛隊は「(国民がこれらの権利を享受するための)必要最小限の実力組織」だから憲法に違反しないとの解釈を示してきた。

文民統制

 旧軍と自衛隊の大きな違いの一つは、旧軍の指導部が天皇を隠れ蓑にして満州などで暴走した反省から、自衛隊は政治が軍事を統制する「シビリアン・コントロール(文民統制)」の下に置かれたことだ。日本軍は消滅し、新たな軍事組織として生まれた自衛隊は統制のあり方を含めて抜本的に見直されたことから旧軍と距離を置くよう求められ、自衛隊の幹部らも肝に銘じてきたはずである。

 陸上自衛隊の駐屯地は旧陸軍の施設を居抜きで使っている例が多い。東京都の朝霞駐屯地には展示館の「陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)」があるが、旧陸軍関係の展示品は一切なく、別の施設である振武台記念館に乃木希典大将の掛け軸や昭和の軍礼服などが展示されている。自衛隊と旧軍は違うことを分かりやすく示した実例といえる。

 一方、海上自衛隊は佐世保資料館(長崎県)、鹿屋航空基地資料館(鹿児島県)とも「資料館」の名前を使って旧海軍の艦艇や航空機の模型、鹿屋ではゼロ戦の実機まで展示。旧海軍と海自が混在した施設となっている。

 海自の場合、敗戦の翌月から連合国軍司令部(GHQ)から命じられた海運再開のための機雷除去を開始、航路啓開部と名前は変わったものの、海軍の活動が継続したことから、海自の一部には旧軍との連続性を主張する向きもある。

住民感情は変化

 先の大戦で地上戦が行われ、県民4人に1人が亡くなった沖縄県と自衛隊の関わりをみてみよう。本土復帰した1972年、第一陣約100人の隊員が移住して陸自第1混成団(現第15旅団)は産声を上げた。着任したばかりの隊員たちは旧軍と同列視され、住民票登録を拒否されたり、成人式への出席を断られたりと冷遇された。

 自衛隊機による急患輸送や不発弾処理などの実績を重ねる中で、住民感情は少しずつ変化したようだ。地元出身の隊員は増え、市町村役場は自衛官募集の事務取り扱いを代行する。チーム名で参加していた那覇ハーリーは、いつの間にか、○○自衛隊と陸海空の所属を明記するように変わり、私服で通勤していた隊員たちが迷彩服姿になったのを気に留めた人は少ないかも知れない。

 90年代になると、雲仙普賢岳の噴火、阪神淡路大震災に代表される災害派遣が本格化し、国連平和維持活動(PKO)などの海外活動も始まった。災害活動への期待、海外における日本の知名度アップといった貢献ぶりが評価され、東日本大震災があった翌2012年、内閣府の「自衛隊に関する世論調査」で「自衛隊に良い印象を持っている」との回答が初めて90%を超え、その後も高止まりしている。

先祖返り

 発足直後は「税金ドロボウ」とまでののしられた自衛隊が今や「良い印象」を持たれる組織に大変身した。高評価を受け始めたことと近年、見られる旧軍への「先祖返り」は無縁ではないだろう。言葉は悪いが、「調子に乗っている」と言われても仕方ない。

 今年になって陸上幕僚副長を始めとする陸自幹部や海自の練習艦隊が靖国神社に集団参拝した事実が明るみに出た。埼玉県の陸自第32普通科連隊がX(旧ツイッター)の公式アカウントで「大東亜戦争」という用語を使って投稿し、批判されて削除した。

日本軍第32軍の牛島満司令官

 沖縄では第15旅団が沖縄戦で日本軍第32軍を率いた牛島満司令官の辞世の句をホームページに掲載していることが判明した。「自衛隊と日本軍が一体と想起させるもので不適切だ」との批判があるが、埼玉の例と違って、こちらは削除されていない。

 15旅団の広報担当者は「旧日本軍を美化する目的はない。誤解がないように情報発信していく」という。誤解とは事実や言葉を誤って理解することを指し、問題があるのは相手の方だと責任を回避する便利な言い回しである。

 本当に誤解だろうか。「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ」。この句は「敗色が濃厚となった沖縄の臣民は、大日本帝国のためにまた立ち上がってほしい」と解釈できる。当時の司令官の立場からすれば、自然にわき出た思いをつづったと想像できるが、新憲法の下の自衛隊が引き継いでよい考え方であるはずがない。

 南西諸島の離島には陸自の駐屯地が次々に開設された。与那国島では情報収集の部隊が来るからと賛成した前町長ら誘致派の住民はミサイル部隊の配備が決まり、「こんなはずではなかった」と嘆く。

 宮古島や石垣島に配備されたミサイルは、敵基地攻撃に使う長射程ミサイルに置き換わる可能性が高い。抑止力になると歓迎した人々は台湾有事への「巻き込まれ」に当惑し、政府が進める山口・九州への避難計画に反発する。

 沖縄の自衛隊は、住民を戦争に巻き込んだ沖縄戦と同じ方向へと歩を進めている。積極的に旧軍にすり寄るのは、さらに信頼を失う愚行とわきまえるべきだ。

 今もある旧陸軍の親睦組織「偕行社」には陸自OBが名前を連ね、代表は陸幕長経験者が務める。旧海軍の親睦組織「水交会(旧水交社)」には海自OBが参加し、こちらの代表は海幕長経験者だ。

 こうした事実から旧軍と自衛隊は実は地下水脈でつながっていると疑われているのだから、せめて衣の下の鎧(よろい)ぐらいは隠せ。一方、ジャーナリズムはその鎧の実態を暴露し続けなければならない。

防衛ジャーナリスト
半田滋

 はんだ・しげる 1955年生まれ。元東京新聞論説兼編集委員。獨協大学非常勤講師、法政大学兼任講師。海上保安庁政策アドバイザー。92年より防衛庁(省)取材を担当。2007年、東京新聞・中日新聞連載の「新防人考」で第13回平和・協同ジャーナリスト基金賞(大賞)を受賞。