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「命どぅ宝」届けるには 川満茂雄(平和祈念資料館元館長)<戦後79→80年 平和運動の在り方、基地問題を問う>上


「命どぅ宝」届けるには 川満茂雄(平和祈念資料館元館長)<戦後79→80年 平和運動の在り方、基地問題を問う>上
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 6月23日は、太平洋戦争で沖縄戦の組織的な戦闘が終わったとされる「慰霊の日」。平和や命、安らかな暮らしの大切さに改めて思いを巡らせる79年目の夏に、平和運動の在り方や基地問題の現状について、2人の識者が論じた。

 沖縄は、1429年の琉球王国誕生以来、長期にわたって平和を享受してきた。だが、17世紀初頭の薩摩藩による侵攻を経て1879年、日本に併合された。政府は「皇民化教育」を推し進め、沖縄の方言を禁止して「国」に尽くさせる方針を徹底した。

 沖縄の人々には「ヤマトンチュー(日本人)になりたい」との「強いられた」思いが育まれた。これが、太平洋戦争で組織的な戦闘終結から79年がたつ沖縄戦の悲劇の遠因になった。

 旧日本軍による「一木一草といえども戦力化すべし」との考えを現実のものとして受け止め、手りゅう弾を手に米軍の戦車に突撃した妊婦もいた、との証言がある。「鉄の暴風」と言われる沖縄戦の特徴は、住民の4人に1人が犠牲になったことだ。

 沖縄には「命(ぬち)どぅ宝(たから)」という思想がある。自分の命も他人の命も大切にするという、平和を求めてやまない考えだ。沖縄戦の記憶が遠ざかる今、戦争の悲惨さを後世に継承し、戦争をしない、させない決意を示したい。「命どぅ宝」の精神を本土の人とどう共有するのか、改めて考えたい。

 本土復帰6年後に沖縄のトップになった当時の西銘順治知事は、口癖のように「ヤマトンチューになりたくてなりきれない沖縄の心」という複雑な胸中を吐露していた。

 このころ県職員だった私は知事の命を受け、沖縄の子どもたちが本土と交流する「豆記者」活動に関わった。沖縄戦の悲劇や「命どぅ宝」の考えを本土に広め、当時皇太子夫妻だった上皇さまご夫妻にも伝える貴重な機会もあった。活動は今も続いている。

 県平和祈念資料館の館長在任時、最高裁長官を務めた町田顕氏が来訪し、「昭和天皇メッセージ」の展示の前で足を止めた。昭和天皇が、米軍占領下の1947年、連合国軍総司令部(GHQ)に、側近を通じて戦後の米国による統治を認めたとされる内容だ。

 私はメッセージを巡り、戦後27年も沖縄が米施政下に置かれた起源になったとの指摘や、沖縄に対する日本の潜在的主権を確保する狙いがあったとの議論があり、その意図や戦略的影響は決着していないと説明した。長官の複雑な表情が印象に残っている。

 資料館には、沖縄が願う恒久平和への思いが凝縮された言葉が展示されている。「戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み 平和な島を建設せねば と思いつづけてきました」「これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た ゆずることのできない 私たちの信条なのです」

 この信条はどれだけ本土に届いているのか。県民が反対する在日米軍基地の過重負担について、なぜ日本政府や本土の人々が今も理解してくれないのか。

 稲嶺恵一元知事は「国民の多数の目が沖縄に注力しなければ沖縄問題は解決しない」と語っている。ウチナンチュー(沖縄人)の心中が伝わらない事情を翁長雄志前知事は「魂の飢餓感」と訴え、大田昌秀元知事は「醜い日本人」と言った。

 沖縄が舌足らずなのか。本土が沖縄を対等に扱っていないのか。ヤマトンチューの良心が沖縄に向けられることを願ってやまない。


 かわみつ・しげお 1946年、現在の宮古島市生まれ。同県職員を経て、2006~07年、県平和祈念資料館館長。現在、公益法人「沖縄協会」理事。