90歳の母は、週に2回、介助されながら元気にデイサービスに出かける。30秒ごとに記憶が消去されるので、毎日、毎時間が繰り言だらけだが、認知症を「患う」という表現が不適切なほど、毎日ご機嫌で食欲も旺盛だ。食事のたびに笑顔で「こんなに美味(おい)しいものは生まれて初めて」と言う(ちなみにそれは昨日も食べた夕飯の残り)。そして、「人生で今が一番幸せ」なのだそうだ。
母は10歳の頃、九州に学童疎開した。最初は対馬丸に乗船したが、「船が違う」と降ろされ、隣の暁空丸に乗り換えた。対馬丸が攻撃された時、ゆっくりと旋回しながら海原にのみ込まれる船体と人々を目の前にして、みんな隣の甲板でわんわん泣くしかなかった、と語った。
命がけでたどり着いた疎開先の熊本で待っていたのは寒さと飢えだった。ひもじい時に隣からいい匂いがすると、その家の勝手口に立った。「おばちゃん、芋を煮ちょっとね?」と物欲しげにガン見する子どもに、おばさんは「煮えちょるよ、ほれ」と出来たてのふかし芋をくれたという。沖縄の学童たちはそうやって地元農家さんから食べ物をもらって飢えをしのいだそうだ。認知症のはずなのに、親切にされた話になると、記憶も驚くほど鮮明になる。
兄夫婦との同居のために宮崎に移った後も生活は貧しかった。宮崎では、母の分まで弁当のおにぎりを作ってくれた友人がいたそうだ。それまでは、弁当がないのを級友に見られるのが嫌で、昼食時間は校庭でやり過ごしたという。「校庭で一人で何してたの?」と聞くと「鉄棒していたさ」とのこと。高校生の頃、母に挑んだ腕相撲であっけなく敗北したのを思い出した。後に、当時は生活のために河川工事の現場で土木作業もしていたと聞き、怪力の謎が解けた。
修学旅行気分で疎開船に乗った母がようやく帰沖する頃には年齢も30歳になっていた。心配した父親に勧められた縁談の相手は、無口で、痩せっぽちで、一文なしだが、技術者としての腕だけは確か、という男。母は「最初はこんなヨーガリヒーガリ、と思ったけど、正直者で賢かったから、この人を活かせるかどうかは私次第だと思って結婚したさ」と言った。こうして生殺与奪権を母に奪われた父だったが、父の友人曰(いわ)く、生前は酔うとたまに妻の自慢をしていたらしい。
遠い目をして昔を語る母の記憶は日々淘汰(とうた)されている。しかし、喜びと感謝に満ちた思い出だけはいつまでも残るのだろう。苦労話は一切せず、幸福な老いを実践している母に、私はこの先もずっとかなわないような気がしている。
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1967年生まれ、那覇市首里出身。琉球大学教授。専門は米文学、ジェンダー研究。編著書に「沖縄ジェンダー学」全3巻(大月書店、2014―16年)など。09年以降、大学や県の男女共同参画に関わり、23年より琉球大学副理事・副学長。