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「また会いに来たよ」 遺族ら肉親の名を呼び、非戦を誓う 沖縄からダバオ墓参団、5年ぶり  


「また会いに来たよ」 遺族ら肉親の名を呼び、非戦を誓う 沖縄からダバオ墓参団、5年ぶり   戦前からの県人の足跡を刻む「鎮魂の碑」に向かって手を合わせる参加者ら=11日、ダバオの旧日本人墓地(沖縄ツーリスト提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 「また会いに来たよ」。遺族らの強い要望で5年ぶりに再開された「第56回ダバオ慰霊と交流の旅墓参団」(主催・県ダバオ会)。太平洋戦争末期の1945年4月、ダバオのあるミンダナオ島に米軍が上陸し、軍民合わせて1万2千人以上の県出身者らが犠牲になったとされる。遺族らは亡き肉親の名前を呼び、戦争を繰り返さないという思いを強めた。

 太平洋戦争開戦まもない42年1月、日本軍はマニラを占領しフィリピンで軍政を敷いた。攻勢を強める米軍は44年7~8月に旧南洋群島のサイパンやテニアンなどを占領した後、フィリピン奪回作戦を決定。空襲を激化させ、44年10月にレイテ島、45年4月にミンダナオ島に上陸。女性や子どもらはダバオの山奥、タモガンに逃げた。

 桃原隆盛さん(91)=宜野湾市=も泥だらけの道を逃げた一人。米軍は昼夜問わず攻撃を加えた。一緒に逃げていた8歳の弟・隆夫さんの手に破片が当たり、破傷風で2週間後に亡くなった。「『痛い、痛い』という声が今も耳を離れない。旅行は楽しいものだけど、慰霊のこの旅は悲しいよ」。弟を思い毎年、参加してきた。

 日本の軍政を敷いた3年間でフィリピンの住民が殺されるさまも桃原さんは目にした。現地の人々に「日本が恨まれた悲しい歴史を忘れず、若い人たちに記憶を引き継いでもらいたい」と望む。

 古波蔵恵美子さん(87)=宜野湾市=は戦前沖縄から移住し、麻栽培に従事していた両親の下に生まれた。母の兄は現地で召集され、亡くなった。「もし生きていたら、幸せな日々を送っていたろうにね」と悔しそうに語った。

 米軍がミンダナオ島に上陸した45年4月17日、沖縄も地上戦のさなかだった。喜友名朝保さん(91)と弟の喜友名朝春さん(89)=いずれも北谷町=は戦前にダバオで生まれ、沖縄に引き揚げた。ダバオで戦争は体験していないが、沖縄戦を体験した。一家は現在の沖縄市白川の壕から北谷町上勢頭付近に逃げて砲爆撃を受け、朝春さんは右肩から背中に被弾。当時6歳の妹は「お兄ちゃん、お水飲みたい」と3回繰り返し、息を引き取ったという。

 朝春さんは一命を取り留めたが、多くの友人をダバオで亡くした。「絶対に戦争をやってはいけない。前のように戦争をしたら、お年寄り、女性、子どものたくさんの犠牲が出る。世界平和をしていかないと」。朝春さんは力強く、繰り返した。

(中村万里子、狩俣悠喜)