太平洋戦争中にフィリピンで亡くなった人々を慰霊する「第56回ダバオ慰霊と交流の旅墓参団」(主催・県ダバオ会)が9日、フィリピン・ミンダナオ島のダバオへ向けて出発する。11日に追悼式を開く。
墓参団の一員の普久原朝信さん(88)は1945年4月、ミンダナオ島の地上戦に巻き込まれた。37歳の父・朝栄さん、14歳の姉・静子さん、2歳の妹・春枝さん、5歳の弟・彰さんを亡くした普久原さんは「生き地獄だった。戦争は人間が人間じゃなくなる」と声を振り絞った。
普久原さんは35年にダバオ市のバヤバスで生まれた。41年、日本軍は真珠湾攻撃と同時にフィリピンのアメリカ施設も空襲。ダバオ市での生活が一変した。朝栄さんはダバオ市内の飛行場や軍施設の建設に徴用された。
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日本軍が42年、フィリピンを占領。普久原さんが通っていたバヤバス小学校の、フィリピン人の男性英語教諭が日本兵に射殺される現場を目撃した。「英語の先生が軒並み殺された。目撃した時は怖かった」
米軍がミンダナオ島に上陸した後、日本軍の命令でタモガンの密林に避難した普久原さんは家族と逃げ惑った。「あっちこっちに死体があった。人間の死臭がひどくて鼻の感覚がなくなった」
終戦後は米軍のダリアオン収容所で過ごし、米軍の引き揚げ船で神奈川県の浦賀に渡った。一緒に来た8歳の弟・卓さんはマラリアで亡くなった。普久原さんは54年ごろ沖縄に戻った。
慰霊の旅にはこれまで5~6回参加した。「今年が最後のつもり。最後の供養をしに行く。父と姉、弟、妹に安らかに眠ってくださいと祈りたい」と思いを語った。
(狩俣悠喜)