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12歳、汚物が混じった水飲み…少年が見た地獄 「兵隊は住民を守らず」 サイパン陥落80年


12歳、汚物が混じった水飲み…少年が見た地獄 「兵隊は住民を守らず」 サイパン陥落80年 サイパンで死体を踏み越えて逃げ、住民が死を強いられるのを目の当たりにした上運天賢盛さん=6月27日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 県出身の大勢の住民を巻き込む「共生共死」の戦いは、サイパンだけでなく隣接するテニアン、そして沖縄戦でも繰り返された。

 日本は国際連盟を正式に脱退し、ワシントン・ロンドン軍縮条約が期限満了を迎える1936年ごろまでには、旧南洋群島を「海の生命線」として軍事的に重要とするスローガンを掲げた。37年の日中開戦を境に、国家総動員法の施行で政府主導の国民統制を一層強めていく。国民精神総動員運動の促進、軍事施設建設を急速に進め、動員体制を強化した。

 44年には、中国などからサイパンへの日本軍配備が進んでいた。サイパン・マタンシャで暮らしていた当時12歳の上運天賢盛さん(92)=那覇市=の兄は、輸送船で乗っていた日本兵らが攻撃を受けて負傷し、上陸時には武器を持っていない状況を目撃していた。島の住民らはその異変を察知していた。公言はできなかったが、「はだかの兵隊」とささやかれていたという。

 のちの沖縄戦と同じく、旧南洋群島では、米軍に捕まれば残虐に殺されるとのうわさが流布していた。やがて地上戦になると、住民は捕まる恐怖などから崖から身を投げたり、手投げ弾で命を絶ったりした。

 大本営がサイパン放棄を決定した44年6月25日から壊滅までの間、大本営、陸軍省は住民の扱いを議論していた。参謀本部から「女、子どもも玉砕してもらいたい」と意見が出され、最終的に「非戦闘員は自害してくれればよいが、やむを得ず敵手に落ちてもやむを得ない」との趣旨で、大本営政府連絡会議で決定された。しかし、「敵手に落ちてもやむを得ない」の方針は公にされなかった。

 サイパンの住民の死はやがて、全員が軍と運命を共にした「殉国」と美化されて沖縄や日本本土に伝えられ、戦意高揚に利用された。

 沖縄戦を指揮した第32軍の牛島満司令官は44年11月、「軍官民共生共死の一体化」の県民指導要綱を発令した。軍と共に死ぬまで戦い抜くしかない、という沖縄戦につながる。

 上運天さんはサイパンで「地獄」の戦場をさまよい、大勢の命が絶たれる様子を目撃し、遺体が倒れ込み汚物の混じった水を飲んだ。「兵隊は国を守ることを義務にしても、住民を守ることは義務ではない。サイパンで戦争をやめていれば沖縄も、広島も長崎もなかった」と唇をかむ。

 南西諸島で進む自衛隊増強を「今は『住民を守る』と言っても口実。戦争が始まったら最後、自衛隊は住民を守らないよ。サイパンでそうだった」と語る。

(中村万里子)