自宅前を行進する日本軍に、深々とお辞儀をした。しかし、戦争が来るとは思っていなかった。サイパンに。空襲警報の音はこびりついている。
志喜屋正枝さん(87)と照屋静枝さん(84)=いずれも沖縄市=の姉妹はサイパン島南部、チャランカノアで生まれた。日本の南洋への軍事的・経済的進出を支えた国策企業、南洋興発の製糖工場がある第二の町。母親は子育てと農業の功績で南洋興発から表彰された。
1944年2月、米軍の空襲が始まった。当時7歳の正枝さん、4歳の静枝さんは庭に掘られた壕に逃げた。「怖い」。耳をふさぎ、座布団を抱えた。
6月13日から米軍による艦砲射撃が始まった。父母ときょうだい7人は海岸近くの壕に向かった。2日後に米軍が上陸すると、日本軍は住民を巻き込む持久戦を展開した。
一家のいる壕に入ってきた日本軍は、兄で当時13歳の稲福知盛さんを食料や水を確保する使い走りにした。
別の家族は泣く赤ん坊を殺されたという。戦後、母親が語った話だ。「カマス(袋)の中に(赤ん坊を)入れてブロックでたたきつけて殺しているのを目の前で見たから、母は私を抱っこして『声だすなよー、泣くなよ』となだめたって」
壕を追い出される形となった一家。日本軍の陣地があった一帯に迷い込み、米軍に銃撃を受けた。母親を守るように覆いかぶさった知盛さんは亡くなり、埋葬されたという。
中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲忠一中将は7月7日、「身を以(もっ)て太平洋の防波堤たらん」と訓示し自決した。日本軍は住民の犠牲をいとわず、住民を壕から追い出したり食料を奪ったりした。
兄も壕から追い出されなければ死ななかったかもしれない。「日本兵は汚いよ、日本兵は冷たい。守ってくれなかった」。正枝さん、静枝さんの悔しさは消えない。
(中村万里子)
太平洋戦争でのサイパン陥落から7日で80年。住民は軍と共生共死を強いられた。8カ月後、沖縄で繰り返された悲劇はなぜ防げなかったのか振り返る。