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戦時の悲劇「伝えたい」 渡野喜屋事件 91歳山城さん現場案内 報道受け、生存者の孫2人に


戦時の悲劇「伝えたい」 渡野喜屋事件 91歳山城さん現場案内 報道受け、生存者の孫2人に 渡野喜屋事件の現場で生存者の孫2人に説明する山城重美さん=7月28日、大宜味村白浜
この記事を書いた人 Avatar photo 宮沢 之祐

 戦時中、日本兵が多くの避難住民らを虐殺した渡野喜屋事件の生存者で、遺族でもある仲村元一さん(79)=兵庫県尼崎市=について本紙が7月18日に報道したところ、過去に別の遺族を現場に案内した経験がある大宜味村喜如嘉の山城重美さん(91)が「仲村さんを現場に案内したい」と琉球新報社に連絡を寄せた。山城さんは28日、仲村さんの孫で、沖縄在住の2人を伴って同村白浜の現場を訪れた。

 事件は1945年5月、同村渡野喜屋(46年に白浜に改称)で起きた。米軍に捕まった避難住民を、日本兵はスパイとみなして海辺に集め、手りゅう弾を投げつけた。生後3カ月の仲村さんは母と共に助かった。

 しかし、いとこら4人が死亡。祖父も近くの山中で斬殺されたと聞いた。米軍資料には死者35人とあり、仲村さんの親族が5人を占める。戦後、仲村さんは遺骨を探しに同村を訪れたが、見つからなかった。

 仲村さんは、山城さんの誘いを喜び「再訪したい」と話すが、浦添市に住む孫で琉球舞踊家の仲村佑奈さん(25)、琉球大1年の宏倫さん(19)きょうだいがまず訪ねることになった。

 山城さんは「ここに被害者が並ばされた」と、海沿いの小さな空き地を示した。山城さんは事件当時、山中で避難生活をしており、事件を知ったのは戦後になってから。

 村役場に勤めていた1978年ごろ、遺骨を探す遺族を案内し、重機で現場を掘り下げた。遺骨も何もなかった。「気の毒だったのを記事を見て思い出した。だから知っていることを伝えたいと思った」。きょうだいに、そう語りかけた。

 「これまで実感できなかったけど、本当にあったことなんだと感じた」と宏倫さん。佑奈さんは穏やかな塩屋湾を見渡し「亡くなった人は、この風景を最期に見たのかな」。命を奪われた親戚たちを思いやった。

(宮沢之祐)