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日本兵が避難住民を虐殺 「語るため、生かされた」生存者の仲村さん、兵庫で語り部 沖縄・大宜味の渡野喜屋事件


日本兵が避難住民を虐殺 「語るため、生かされた」生存者の仲村さん、兵庫で語り部 沖縄・大宜味の渡野喜屋事件 「母は日本兵を許せないと思っていた」。渡野喜屋事件を語る仲村元一さん=14日、兵庫県西宮市
この記事を書いた人 Avatar photo 宮沢 之祐

 大宜味村渡野喜屋(現・同村白浜)で1945年5月、日本兵が多数の避難住民らを虐殺した渡野喜屋事件の生存者が兵庫県尼崎市にいる。

 生後3カ月だった仲村元一さん(79)。祖父ら親族5人が命を奪われたが、母らと共に奇跡的に生き延びた。軍隊は住民を守らない。戦争の教訓を忘れてはならないと、語り部として活動を続ける。

 元一さんは同年2月8日に那覇市で生まれた。7年前に99歳で亡くなった母の仲村渠美代さんは戦争中の体験をあまり語らなかったが、問わず語りに話すことはあった。

 元一さんの父が防衛隊に召集され、亡くなったこと。生後すぐ激しい空襲があったこと。その後、祖父の仁王さんら親族9人で北部を目指したこと。しかし、米兵に捕らえられたという。連行された先が渡野喜屋。数十人が集落の空き家に収容された。

 仁王さんは班長に指名され、缶詰など支給品を配った。数日後、姿を見せた住人にも缶詰を手渡した。山に隠れ、困窮していたという。その晩、軍刀を持った日本兵約10人が押し入ってきた。仁王さんが班長と知っており、スパイと決めつけどこかに連れ出した。ほかの避難民を縄で数珠つなぎにして一カ所に集めた。

 美代さんらは「班長の家族は最前列に」と命じられた。「殺すんだろうか」と尋ねる義弟に、美代さんは「友軍だから大丈夫」と答えた。その直後、日本兵は一斉に手りゅう弾を投げつけた。

 美代さんは元一さんと長女をかばって頭などに傷を負ったが、子ども2人は無事だった。義弟や後ろにいた人たちの多くが無残に死んだ。後日、仁王さんも刀で斬り殺されたと聞いた。米軍の資料では死者35人とされた。

 元一さんは高校を卒業後、兵庫県で就職。母の生前、一緒に大宜味村を訪ねたが、遺骨の行方などは分からなかった。

 知人に生い立ちを話すと、「日本軍がそんなことをするはずがない」と言われショックを受けた。「実際にあったことが、なかったことにされないか」。十数年前から、地域の学習会などで沖縄戦のことを話すようになった。「語り継ぐために生かされたのだと思う」 

(宮沢之祐)


渡野喜屋事件 1945年5月、大宜味村の渡野喜屋(46年に白浜に改称)で起きた日本兵による住民虐殺事件。主に女性や子どもが被害に遭ったが、近くの山中では避難民のリーダー的な存在だった男性数人も殺害された。