南風原国民学校に通い、軍歌を歌っていた大城勇一さん(91)=宜野湾市=は次の歌も覚えています。
「とんとん とんからりと隣組 格子を明ければ顔なじみ 廻(まわ)して頂戴 回覧板」
1940年に生まれた「隣組」という歌です。
隣組は、日中戦争が始まった37年、当時の近衛文麿内閣が国民を戦争協力に動員するために始めた官製国民運動「国民精神総動員運動」と、40年にそれを受け継ぐ「大政翼賛運動」の中で生まれました。この歌は隣組を宣伝するために作られました。
40年9月、全国の知事に充てた内務省訓令「部落会町内会等整備要領」で、市町村の下部組織として部落会や町内会、その下に20戸程度を単位とする隣組(隣保班)を整備するよう命じました。県も市町村に同様の訓令を出します。隣組を構成する各戸への連絡手段が「回覧板」です。
大城さんは「はっきりとは覚えていませんが、時々回覧板を回していたはずです」と語ります。
40年10月7日付の琉球新報のコラム「金口木舌」は「とんとんとんからりんの隣組が新国民組織の基底となって意義と実務の重大性を思うべきである」と論じています。
「沖縄市町村三十年史」によると41年9月までに県内で785の部落会・町内会、1万1029の隣組が組織されています。暮らしの中から戦争を支える体制が整えられていきました。