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日本兵「泣いたら撃つ」 餓えできょうだい3人力尽き サイパン<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>上の続き 


日本兵「泣いたら撃つ」 餓えできょうだい3人力尽き サイパン<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>上の続き  日本軍に壕を追い出された恐怖を語る志茂美代子さん=6月27日、名護市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1944年6月15日、サイパンに上陸した米軍と日本軍との激しい地上戦に住民が巻き込まれた。当時13歳の志茂美代子さん(93)=名護市大北=は、米軍の上陸地点チャランカノアの近くに住んでいた。8人きょうだいの長女。両親を含む一家10人は海のそばの壕に入った。女性や子どもが大勢いた。「良いところに入れてよかった」

 そう思ったのもつかの間、日本兵が来て言った。「ここは軍が使う。壕から出なさい」。さらに、赤ん坊の妹を抱っこした志茂さんの母親に向かって言った。「泣かしたら撃ってやる」

 壕から追い出された一家は、伸びた草をかき分けて歩いた。どこをどう歩いたか分からない。ひっきりなしに照明弾が上がり、遺体があちこちにあるのが分かった。すべて民間人だった。

 「いつ捕まって殺されるのか。怖い。生きたい」。志茂さんは祈った。

 父親が民家のそばに、人が入れる穴を見つけた。木を伝って中に降りると、地面は砂地だった。体を横たえると、ひんやりして気持ちよかった。しかし、食べ物と飲み水がなかった。いつまでいたのかは分からない。「弟たちは骨と皮だけになっていた。赤ちゃんは泣く力もなかった」。5歳と3歳の弟と、赤ん坊の妹の3人が命を落とした。

 「デテコイ」という米軍の呼びかけが聞こえてきた。周囲の様子をうかがいながら穴を出た。

 サイパンから引き揚げた志茂さんは現在、名護市に暮らす。東海岸の辺野古には米軍の新基地が造られようとしている。

サイパンで収容所行きの輸送車両を待つ日本の軍人と民間人=1944年7月(県公文書館所蔵)(写真と本文は関係ありません)

 サイパンはかつて日本軍の要衝とされ、飛行場が整備されるなどの軍事強化が進められた。やがて住民を巻き込む地上戦を日米両軍は展開した。日本軍による壕の追い出しや食料強奪、強制集団死…。6千人以上の県出身者が殺されたが、その事実を伏せた大本営は「玉砕」と美談化して伝え、やがて沖縄で同じ悲劇が繰り返された。

 現在、沖縄では米中対立を背景にミサイル配備など軍事強化が進む。「きっとまたやられるんじゃないか。戦前も『戦争はくるよ』と言われていた。戦争の準備をしているから心配よ」。志茂さんは攻撃の標的になり住民が巻き込まれることを恐れている。「戦争って大変だね、逃げる一方でね」。静かな口調に怒りがにじんでいた。

 (中村万里子)