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父の遺体、海に流し… 思い返す光景、誰にも語れず テニアン艦砲射撃で追い詰められ<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>中


父の遺体、海に流し… 思い返す光景、誰にも語れず テニアン艦砲射撃で追い詰められ<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>中 「南洋群島・慰霊と交流の旅」に参加し慰霊する金城秀子さん=2023年6月4日、サイパンの「おきなわの塔」(国際旅行社提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

「ニホンハマケマシタ ハヤク デテキテクダサイ」

 1944年7月下旬、テニアン最南端のカロリナス岬付近。当時8歳の金城秀子さん(88)=那覇市=は逃げ込んだ壕に座り込んでいた。沖合に米軍の艦船が停泊し、投降が呼びかけられていた。壕の入り口には住民が固まり、奥から日本兵が見張っていた。

 米軍は日本軍との激しい地上戦の末、44年7月9日にサイパンを占領。4キロ離れたテニアンを狙った。44年7月16日からテニアンに艦砲射撃を始め、同24日に北西の海岸から上陸。住民は南へと追い詰められた。

 ヒューッ。ヒューッ。艦砲射撃の音が聞こえた。破片と爆風をよけるため、一緒に毛布をかぶっていた父がドサッと崩れ落ちた。見ると、周りの大勢の人も倒れていた。「血の海だった」(金城さん)。日本兵や男性らが父の睦俊(ぼくしゅん)さんを毛布にくるみ、そのまま海に流した。

 日本軍にその壕を追い出され、県出身の男性たちについていった。海岸や山の至る所に遺体があった。一緒に歩く人たちの姿が1人、また1人と見えなくなった。気付くと、米兵1人が銃を向けて近づいてきた。

 「捕まったら女は暴行され、男は殺される」。日中戦争の従軍経験がある先頭の男性はそう言い、自身の娘を抱いて動こうとしなかった。

 金城さんの姉が、大きな針で金城さんの首の後ろを刺して殺そうとした。金城さんは逃げ回った。姉の行動は、死ぬよう指導した教育がそうさせたと捉えている。

 「太平洋の防波堤」という軍の方針の下、持久戦のために大勢の人たちが死に追いやられた。テニアンの地上戦での県人の犠牲は約2千人に上る。

 金城さんは戦後、父が海に流されていった光景を何度も思い返した。「本当に父は死んだのか」。思いを胸にしまい込み、家族と戦争体験を語り合うことはなかった。

(中村万里子)