「ニホンハマケマシタ ハヤク デテキテクダサイ」
1944年7月下旬、テニアン最南端のカロリナス岬付近。当時8歳の金城秀子さん(88)=那覇市=は逃げ込んだ壕に座り込んでいた。沖合に米軍の艦船が停泊し、投降が呼びかけられていた。壕の入り口には住民が固まり、奥から日本兵が見張っていた。
米軍は日本軍との激しい地上戦の末、44年7月9日にサイパンを占領。4キロ離れたテニアンを狙った。44年7月16日からテニアンに艦砲射撃を始め、同24日に北西の海岸から上陸。住民は南へと追い詰められた。
ヒューッ。ヒューッ。艦砲射撃の音が聞こえた。破片と爆風をよけるため、一緒に毛布をかぶっていた父がドサッと崩れ落ちた。見ると、周りの大勢の人も倒れていた。「血の海だった」(金城さん)。日本兵や男性らが父の睦俊(ぼくしゅん)さんを毛布にくるみ、そのまま海に流した。
日本軍にその壕を追い出され、県出身の男性たちについていった。海岸や山の至る所に遺体があった。一緒に歩く人たちの姿が1人、また1人と見えなくなった。気付くと、米兵1人が銃を向けて近づいてきた。
「捕まったら女は暴行され、男は殺される」。日中戦争の従軍経験がある先頭の男性はそう言い、自身の娘を抱いて動こうとしなかった。
金城さんの姉が、大きな針で金城さんの首の後ろを刺して殺そうとした。金城さんは逃げ回った。姉の行動は、死ぬよう指導した教育がそうさせたと捉えている。
「太平洋の防波堤」という軍の方針の下、持久戦のために大勢の人たちが死に追いやられた。テニアンの地上戦での県人の犠牲は約2千人に上る。
金城さんは戦後、父が海に流されていった光景を何度も思い返した。「本当に父は死んだのか」。思いを胸にしまい込み、家族と戦争体験を語り合うことはなかった。
(中村万里子)