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パラオ、空襲で兵糧攻め 「食べ物さえあれば」 母含む親戚5人、やせ細り餓死<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>下


パラオ、空襲で兵糧攻め 「食べ物さえあれば」 母含む親戚5人、やせ細り餓死<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>下 「食べ物があればみんな助かったはずなのに」と語る前田裕子さん=1日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 嶋岡 すみれ

 栄養失調でやせ細った母親は、つえをついてジャングルの出入り口まで見送りに来た。今にも倒れそうな姿に後ろ髪をひかれながら、前田裕子さん(95)=那覇市=はパラオ本島(バベルダオブ島)アイミリーキにいた母の元を後にして、日本軍が同島のガスパンに構築した野戦病院に戻った。1944年8月から看護師として動員されていた。病院では、毎日何人もの日本兵が骨と皮だけになって死んでいった。

 太平洋戦争中、パラオには陸軍第14師団が派兵された。本島バベルダオブ島には米軍の上陸はなかったが、住民は戦争に動員され、空襲や飢えなどで県人約3400人が命を落とした。

 前田さんも親族9人のうち、母親の平良カナさんを含め5人を栄養失調で亡くした。「兵糧攻めだった。食べ物があればみんな助かったはずなのに」

 戦前、旧南洋群島を委任統治領とした日本はパラオのコロール島に南洋庁を置き、統治の中心地として開発した。1937年にパラオに居住した日本人は1万1391人。このうち4割あまりを県人が占めた。

 前田さんは40年、パラオで漁業をしていた父親の平良仲一さんに呼び寄せられ、母親と妹と一緒に、大宜味村大兼久からパラオに渡った。

 日米開戦の翌年の42年4月、前田さんはパラオ高等女学校に入学。学校生活は楽しく、卒業後は教員になることを夢見ていた。

 だが戦争の影は徐々に色濃くなり、授業も奉仕作業などの軍事色に染まった。「なんとなくおかしいなという感じもあったけど、その当時は何が起きているのかよく分からなかった」

 44年2月、米軍は南洋の島々の空襲を始め、3月末にはパラオにも及んだ。前田さんが住んでいたコロールは壊滅状態になった。4月に高女の3年に進級したが、空襲が激しくなり、親戚などと本島アイミリーキのジャングルに逃げた。男性は召集され、女性と子どもだけの生活だった。

 8月に入り、女学生は野戦病院の看護要員として動員される。病棟は内科、外科、伝染病科に分かれ、前田さんは後輩の女学生と内科に配属された。やせ細った腕の皮膚をひっぱって注射を刺したり、金づちのようなもので膝をたたき、脚気(かっけ)を診断したりした。毎日何人もの日本兵が亡くなった。「またか」。死に対する恐怖や悲しみは薄れ、毛布にくるまれて担架で外へ運び出される遺体に敬礼して見送った。

 月に1度ほどはアイミリーキの母親の元へ向かった。母親が空襲の間をぬって育てたサツマイモは軍が持って行き、住民はカンダバーや野草を食べて飢えをしのいでいた。軍でも次第に提供される食事が減り、乾麺麭(かんめんぽう)(乾パン)1袋を2人で分け合ったり、乾麺麭が浮いた汁のようなもので空腹をしのいだりした。

 米軍はアンガウル島とペリリュー島で戦闘の終結を宣言し、45年6月には「沖縄玉砕」の報に接していた。だが「勝つまでは頑張ろう」と、ともに動員された女学生と励まし合った。

 45年8月15日、集合がかけられ、ジャングルの少し広くなった場所に日本兵らと集まると「玉音放送」が流れた。日本兵は泣いていた。「まさか負けるとは思っていなかったけど、少しほっとした気持ちもあった」。動員は約1年に及んでいた。

 9月に動員を解かれ母親の元へ駆けつけたが、既に亡くなっていた。2歳のいとこは寝たまま、5~6歳のいとこも座ったまま動かなくなったと聞いた。みんな栄養失調だった。食べ物さえあれば、生きられたはずなのに―。悔しさが募る。

コロールの「沖縄の塔」に花やお菓子などを供え、犠牲者を追悼する「パラオ慰霊墓参の旅」の参加者ら=2023年11月30日、コロール(国際旅行社提供)

 46年3月、父親や親族とアイライの収容所に集まった。グアムで一泊して中城湾久場崎に入港し、沖縄の地を踏んだ。

 今は7人の子、19人の孫、12人のひ孫に恵まれた。紛争などの影響で、栄養失調でやせ細った外国の子どもを目にする度に、過去の光景と重なり胸が痛む。「戦争で子どもたちが犠牲になったり、戦場に駆り出されたりするかと思うと怖い。戦争は絶対にだめ」。声を振り絞った。

 (嶋岡すみれ)