prime

迫る戦火、妹たち次々犠牲に 「平和の時代では話せない」記憶、語り始める<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>中の続き


迫る戦火、妹たち次々犠牲に 「平和の時代では話せない」記憶、語り始める<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>中の続き 「父は本当に死んだのかな」と自問を続けた思いを語る金城秀子さん=6月23日、那覇市識名の南洋群島戦没者慰霊碑
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

父の遺体、海に流し… 思い返す光景、誰にも語れず テニアン艦砲射撃で追い詰められ<強いられた防波堤ー南洋の戦い80年>

 戦前、国策企業・南洋興発のテニアン・マルポの農場で、両親はサトウキビを栽培していた。1944年当時マルポ国民学校2年、8歳の金城秀子さん(88)一家に戦火が迫った。

 米軍は44年6月11日にサイパン、テニアン、ロタ島への激しい空襲を開始。飛行場、海岸の砲台、水際陣地、市街地などが標的となった。

 空襲警報が連日鳴り、一家は庭に掘った壕に出入りを繰り返した。父が言った。「すぐそばの南洋興発がゆうべやられた。ここは危ない。カロリナスに避難しよう」

 父の決断で身重の母と秀子さん、姉と妹3人の一家7人で、島南部のカロリナス山へ向かった。

 米軍は44年7月24日に上陸を開始。攻勢を強める米軍に日本軍はカロリナス山へと撤退。山には海と空から猛烈な砲爆撃が加えられた。

 一家は山にいた。「夜は海から照明弾が上がって、昼は艦砲射撃。照明弾が上がったらサトウキビ畑に身を伏せてね。やんだらまた歩いた」。食べ物も飲み水もなくひたすら歩き続けた。くたくただった。水筒を下げたまま死んでおり、体が膨らんだ兵隊も目にした。

1944年のテニアン戦で米海兵隊が、父親と一緒に何週間も隠れていた小さな女の子を穴から引っ張り出している様子。こうした子どもたちが大勢いた(県公文書館所蔵、写真と本文は関係ありません)

 山を越えると海だった。追い詰められた住民らがカロリナス岬から次々に飛び込んでいた。

 米軍は、カロリナス山の日本軍最後の陣地に突入態勢を整えた。日本軍は8月2日、残った約千人が最後の突撃を行い、組織的戦闘は終結した。

 金城さんの妹たち3人は亡くなった。いつなのかは定かでない。壕で生まれた女の子は「末子」と名付けられたが、すぐに息を引き取った。艦砲射撃で父親も殺された。

 サイパンに続きテニアンが陥落し「絶対国防圏」は崩れた。大本営はサイパン放棄を決定した44年6月24日に「もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ」と機密日誌に記していた。勝ち目のない戦いに突き進み、沖縄でも住民に死を強いた。教育や新聞は南洋の住民の死を美化して伝え、大本営に追随した。

 「日本軍と住民の立場は違ったはずね。でもそんなことは後から分かったこと。日本は勝つというばかりだった」。金城さんは後悔を語る。

 金城さんと姉、母親は米軍に捕まり、チューロキャンプへ送られ、その後、沖縄に戻った。地上戦となった沖縄は焦土と化していた。

 必死に生活をつなぎ、家族で戦争のことは話さなかった。金城さんは、当時の死を強いる教育や、姉も妹にそれを実行しようとしたことを戦後も問うことができなかった。長く語れなかった思いをこう話す。「私たちがやったことは、平和の時代では話せないことだったんだと思う」

 母や姉が鬼籍に入った。戦争の記憶を継承していくため「身近な人に話したほうがいい」と考えるようになり、めいや周囲に体験を語り始めた。めいは体験者の子や孫などでつくる「旧南洋群島帰還者会を継承する会」に入って活動を続ける。

 「私が継承するから」。めいが語った言葉を口にして、金城さんは目を細めた。

 (中村万里子)