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10・10空襲「まさか」「半死半生の日本兵が救を」沖縄民政府の初代知事・志喜屋氏 手記に当時の心境


10・10空襲「まさか」「半死半生の日本兵が救を」沖縄民政府の初代知事・志喜屋氏 手記に当時の心境 志喜屋孝信氏=写真右(那覇市歴史博物館提供)
この記事を書いた人 玉城 凪姫

 沖縄県公文書館は7月から沖縄民政府初代知事(1946~50年)である志喜屋孝信氏が自ら記録した文書などの関連資料を公開しており、10・10空襲の体験をつづった手記もある。

 空襲当時、開南中学校(那覇市樋川)の校長だった志喜屋氏は朝食後、大きな銃声を聞いたと記し「演習とも思ひしも 余りに音が音がひどく聞ゆるので空襲とわかり」「私は心の中にはまさかと思ひ沖縄までは実際には来ぬものと半ば心の中には考へて居た」(原文のママ)とつづっていた。

 県公文書館が保存する「志喜屋孝信文書」は全375点の私文書で、ことし3月に親族から寄贈された。このうち、手記では、1941年12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦から45年4月6日までを回想している。

志喜屋孝信氏が10・10空襲に関して記した手記の一部

 手記によると、10・10空襲の日、志喜屋氏は校長を務めていた開南中に向かった。当時日本軍の病院となっていた同校はすでに大きな騒ぎとなっていたという。「講堂には半死半生の兵隊が救を求めて居る しきりに水を要求して居る 惨状目もあてられぬ 嗚呼(ああ)恐ろしい」「真和志役場の東側の甘蔗(かんしょ)畑の中で一夜をあかした 那覇の上空を見ると天は真赤である。ガソリンが盛に燃えて居る 其のバク音も驚ろしい」(同、ふりがなは挿入)と記していた。

 志喜屋氏(1884~1955年)は県立第二中(現那覇高)の校長を務め、1936年に私立開南中を創設した。戦後は沖縄諮詢会委員長や民政府知事、50年に琉球大初代学長を務めた。

 県公文書館公文書専門員の大田文子さんは「教育者かつ行政に関わった志喜屋の葛藤や沖縄の歴史の複雑に触れられる資料だ」と強調した。資料を閲覧する場合、事前に沖縄県公文書館閲覧室への問い合わせが必要で、電話098(888)3871。 

(玉城凪姫)