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燃える那覇「家族は…」 片岡千代さん やまぬ攻撃にぼうぜん <戦が来た日 10・10空襲80年>1


燃える那覇「家族は…」 片岡千代さん やまぬ攻撃にぼうぜん <戦が来た日 10・10空襲80年>1 旧久茂地町で体験した「10・10空襲」の様子を語る片岡千代さん=5日、那覇市久茂地の那覇市歴史博物館(大城直也撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 嘉陽 拓也

 1944年10月10日の朝、片岡千代さん(94)=旧姓・長嶺=が那覇市久茂地町(当時)にあった自宅を出るときだった。市松山にあった県立第二高等女学校の2年生で当時14歳。市垣花町での高射砲陣地づくりの奉仕作業と学校での授業は日替わりで、10日は作業日だった。戦時体制で携帯が求められていた救急袋と頭巾を手にしたとき、空襲警報と同時に爆音が聞こえてきた。

 午前6時40分、米軍機が那覇市の上空に到達した。市は午前7時に空襲警報を発令し、サイレンや半鐘が街に鳴り響いた。第1次空襲は午前8時20分まで続き、米軍機延べ240機が小禄、読谷、嘉手納、伊江島の各飛行場を攻撃した。

 空襲の合間、両親と千代さん、幼い妹2人と末の弟は真和志村古島(現那覇市)の親類宅を目指した。片岡さんの兄は滋賀県の青年学校に行き、10歳の弟は宮崎県に疎開していた。

 崇元寺通りは逃げ惑う人々が右往左往していた。近隣の壕はすでに満員状態。手を引く妹2人は歩き疲れて泣いた。片岡さんは親類宅の様子を確認しようと、妹2人を母に預けて先を急いだ。親類宅は無事だった。

 10・10空襲で、米軍は5次にわたる攻撃の当初、港湾など軍事施設を集中的に狙い、やがて民家や学校なども無差別に攻撃した。

 千代さんが家族の下に戻ろうとしたとき、真和志村真嘉比の高台で足が止まった。海に面する那覇の街は炎で包まれ、空まで赤く染まっていた。「お母さんやきょうだいは…。明日からどうすれば」

 空襲はやまず、那覇の街に火柱が上がり、地面が震えた。負傷した人から崇元寺付近が狙われていると聞き、ぼうぜんとした。

 (嘉陽拓也)

 10・10空襲から10日で80年。1396機の米軍機が沖縄本島や大東島、奄美大島、宮古や石垣などを空襲した。軍事施設だけでなく住宅を無差別に攻撃し、668人が犠牲になった。旧那覇市は約9割が焦土と化した。多くの県民が初めて体験した戦争を振り返り、基地機能強化が進む今の沖縄を考える。