沖縄で地上戦が始まる前年の1944年10月、アメリカ軍機動部隊の艦載機が那覇市を中心に奄美より南の南西諸島の島々を爆撃した「10・10空襲」から80年を迎えます。「10・10空襲」では、機動部隊は10日早朝から夕刻にかけて5回にわたって激しい空襲を繰り返し、一般住民を含め約660人が犠牲になりました。
特に被害の大きかった那覇市は住居の約90%が焼失しました。民間人の死亡者330人のうち那覇市民は225人で全体の7割を占めました。軍事施設だけでなく病院や民間地域も攻撃の対象となった事実上の「無差別攻撃」でした。那覇市以外でも読谷村や本部町が空襲に遭いました。10・10空襲にはアメリカ軍の情報収集の側面もあり、空爆しながら航空写真を撮影し、それを基に詳細な地図が作成されました。翌年4月の沖縄本島上陸に備えたのです。
沖縄戦の事実上の前触れとなった「10・10空襲」前後の那覇市の街並みや被害の状況を振り返ります。
モダンな街並み、政治経済の中心地「那覇」
1879年の「琉球処分」(琉球併合)の後、明治政府は交通の便が良く、人が多い那覇に沖縄県庁や裁判所、郵便局、電話交換局などを置きました。那覇四町(なはゆまち)と久米村、泊村が那覇区(1921年に市となる)となりました。那覇市は行政機関だけでなく百貨店や商店、映画館やカフェなどが並ぶ政治や経済の中心地、流行の発信地でもありました。
近づく戦争の足音
1938年に制定された国家総動員法により、政府は戦争遂行のために国民の暮らしや経済活動、言論活動をすべて統制する権限を持つことができるようになりました。この法律によって日本の戦時体制が築かれました。
沖縄でも戦争に備えるため、県民の生活が厳しく制限されました。県民の暮らしそのものが戦時体制にのみ込まれたのです。
子どもたちに対しては、軍事教育はいっそう強化されます。1941年の国民学校令によって、これまでの尋常高等小学校が国民学校となり、戦時体制に応じた教育が行われるようになりました。旧制中学校(現在の高等学校)や師範学校(教員を養成する学校)でも軍事色が強まります。沖縄戦では在校生たちが女子学徒隊、鉄血勤皇隊、護郷隊などとして戦場に動員されます。
死傷者1400人超、那覇の街9割が焼失
1944年10月10日早朝、米軍の空母から飛び立った米軍機が奄美より南の南西諸島の島々を攻撃しました。米軍の攻撃は午前6時40分から午後3時45分までの第5次にわたり、約9時間、延べ1396機が出撃しました。第1次空襲は主に本島南部・中部・北部に造られた日本軍の飛行場が破壊され、第2~3次空襲では那覇や現在の本部町(渡久地)、沖縄市(泡瀬)などの港湾施設と船舶、飛行場、飛行機が攻撃対象となりました。
那覇市が集中攻撃を受けたのは午後0時40分以降の第4次と5次空襲でした。多くの焼夷弾が投下され、那覇市の9割が焼失しました。
第1次から5次に及ぶ波状攻撃で軍人・軍属・民間人を含む668人が死亡、768人が負傷しました。民間人の死亡者330人のうち那覇市民は225人で全体の7割を占めました。
この空襲には米軍の情報収集という側面もありました。米軍が沖縄戦で用いた作戦計画書「アイスバーグ作戦」の計画立案のために地形情報が必要だった米軍は、空爆をしながら航空写真を撮影し、それを基に詳細な地図を作成しました。
沖縄、本土を守る「捨て石」に
10・10空襲によって、沖縄に配備された日本軍は飛行機や船舶、砲弾類を多数失いました。また食料、医薬品なども大きな被害を受けました。特に食料は全県民の1カ月分を焼失し、精米だけでも3255トンを失いました。
10・10空襲後、沖縄本島に配備されていた日本軍の「第9師団」が1944年末に台湾に転出することとなり、沖縄に配備された日本軍の力は大幅に弱まることになったのです。そこで日本軍は、沖縄本島に上陸しようとするアメリカ軍を水際で戦い打ち負かす作戦から、上陸してきたアメリカ軍を本島中南部で迎え撃ち、できるだけ戦争を長引かせる作戦へと変更しました。「戦略持久戦」といいます。そうすることによって日本本土での戦争を遅らせ、その間に本土での戦争準備を整える考えでした。
日本本土を守るため、沖縄は「捨て石」となったのです。この作戦によって米軍の無血上陸を許し、一般住民を巻き込んだ悲惨な地上戦を生み出すこととなりました。