少年が見た戦中の沖縄 65日分の記録、暮らし多岐に 読めなかった答辞、日本軍機の特攻をスケッチ…


少年が見た戦中の沖縄 65日分の記録、暮らし多岐に 読めなかった答辞、日本軍機の特攻をスケッチ… 真栄田義弘さんが戦中につづった日記(左)と1981年に日記をもとにまとめた原稿
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 国頭村出身で大阪沖縄県人会連合会会長を歴任した真栄田義弘さんの遺稿を弟の克裕さん(87)=那覇市=が今月出版した「小国民の戦争体験記」。収められた65日分の記録は多岐にわたる。

 1944年の10・10空襲から2日後となる10月12日の記録では、空襲で焼け出された中南部の人々が、次々と辺土名に到着する様子をつづる。人々は憔悴(しょうすい)していたが、友軍機の大編隊の飛来には目を輝かせて歓声を送っている。

 翌45年2月26日の沖縄師範学校での受験では、「大舛(松市)大尉の必勝の言葉を知っているか」など、皇国民としての資質を探る口頭試問があった。第32軍司令官・牛島満中将に偶然出会ったエピソードも。

 3月23日は国民学校の卒業式が中止になったことに触れる。卒業生総代として答辞を読む予定だったものの空襲で果たせず、無念さがにじむ。

 米軍が本島に上陸して以降となる4月6日には、辺土名沖の海域で米艦に日本軍の戦闘機が特攻する様子をスケッチとともに記録。28日は、食料を求めて夜に畑へ向かう。照明弾や機銃掃射の危険にさらされており、まさに死と隣り合わせの日常を痛感させられる。

 7月23日は米軍の急襲を受けたことで家族は下山し投降を決意。真栄田さんの父は国頭村の収入役をしていたため、避難の際も村の公金や重要書類をリュックサックに詰めて所持していた。戦後の行政再開に備え、山にこれらを隠して後に取り出すエピソードは興味深い内容になっている。

 (小波津智也)