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少年が目撃した「10・10空襲」克明に 国頭出身・真栄田義弘さん遺稿、弟が出版 国頭での戦の実相伝える


少年が目撃した「10・10空襲」克明に 国頭出身・真栄田義弘さん遺稿、弟が出版 国頭での戦の実相伝える 沖縄戦当時の真栄田義弘さんの日記を基にした「小国民の戦争体験記」
この記事を書いた人 Avatar photo 小波津 智也
真栄田義弘さん

 1944年に米軍が県内各地を爆撃した「10・10空襲」から10日で79年を迎える。沖縄戦の始まりとも言われる空襲を国頭村辺土名で目撃した当時13歳の少年の日記を基にした「小国民の戦争体験記」が1日、自費出版された。少年は真栄田義弘さん。戦後大阪で教職に就き、大阪沖縄県人会連合会会長も歴任、2018年に87歳で死去した。国頭国民学校高等科2年時に10・10空襲に遭い、45年12月末ごろまで約1年2カ月にわたり自身で見たり周囲から聞いたりしたことを書きつづった。「体験記」は日記に自身で調べた日米の戦史記録を紹介するなど補筆した遺稿をベースに、弟の克裕さん(87)=那覇市=が編集している。真栄田さんの遺品を譲り受けていた克裕さんが偶然に原稿を発見した。「このまま朽ち果ててしまうのは忍びない」。北部に住む少年が残した日記は、沖縄戦の新たな一面を浮き彫りにし、実相にさらに迫ろうとしている。

 真栄田さんが戦中につづった日記は、父親のいらなくなった書類の裏紙をノート代わりにしていた。鉛筆も短くなり芯がなくなるまで使い切ったという。当時の物資不足がうかがえる。

真栄田義弘さんの遺稿を編集し「小国民の戦争体験記」を出版した弟の克裕さん=5日、那覇市繁多川

 戦後も時折、日記をめくっていたことから傷みが進み字も薄れかけ、1981年に日記を基に自らの体験を整理。日米の戦史記録を紹介するなど補筆した原稿をまとめた。ただ、書籍化は進まず真栄田さんは2018年に死去。それから1年ほどたって、遺品の包みを整理していた克裕さんが日記や原稿を確認した。

 克裕さんが振り返る。「辺土名共同店のところにあったモクマオウに設けられていた物見台で戦果を報告する人がいた。兄はそれを聞いているうちに特異なことがあるとメモをしていた。とにかく好奇心が旺盛だった」

 ノート代わりの裏紙には文字だけでなく、時にはスケッチもあった。国頭国民学校が米グラマン機に爆撃を受ける状況や日本軍の戦闘機が敵に体当たりする特攻する姿などが描かれており、その観察力や記憶力の高さがうかがえる。

 克裕さんは「住民の避難生活の悲惨な状況と合わせて、その中を生きるために糧を得ることがどんなに大変だったのか。当時日記につづっているのはこれぐらいではないか」と語る。「命を継いだ記録を後世に残そう」と原稿のデータ化などの作業をこつこつと進め、今月出版がかなった。

 「体験記」の序文で、真栄田さんは沖縄戦を語り継ぐ必要性を訴えるも、刊行物の多くが大人による視点で激戦地の本島中南部を中心としたものであると主張。少年の目線による記録を通じ、国頭における戦の実相を浮き彫りとする意義を唱える。

 10・10空襲については早朝から相当数の航空機による爆音が南の空に響き、空襲警報のサイレンや「敵機来襲」と絶叫する警察官、グラマン機の猛攻で炎を吹き上げる本部半島の様子を記録した。一方で、危険を顧みず、山のふもとで物見をしたことで父親に激怒されるなど、子どもらしさも垣間見える内容も。「人々の受けたショックは極めて大きく、騒然とした空気は、深夜まで村を震わせた」と締めくくっている。

 当時8歳だった克裕さんも「10・10空襲の直前には偵察機がはるか上空を飛んでいて、飛行機雲をよく見ていた。不安の中通学していた」と回顧する。「要点がしっかりまとめられ、当時を知る上で貴重な記録。より多くの人に読んでほしい」と話した。A5判119ページ。150部発行し、販売はせず国頭村や周辺自治体、県立図書館などに寄贈する。

(小波津智也)