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国が隠した600人の死とは もう一つの10・10空襲、知ってますか? 「海の犠牲」忘れるな 読谷村職員、調査続ける


国が隠した600人の死とは もう一つの10・10空襲、知ってますか? 「海の犠牲」忘れるな 読谷村職員、調査続ける 久米島沖の戦時遭難船舶について明らかにした読谷村史編集室元村史編集員の玉城栄祐さん(右)と調査を引き継いでいる同編集室の豊田純志さん(左)=3日、読谷村
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 10・10空襲の被害は陸上にとどまらず、海上でも多くの船舶が遭難した。久米島沖では約600人の徴用者が犠牲になったとされる。沖縄本島から石垣の白保飛行場建設工事に徴用された人々だった。「読谷村史第五巻 資料編4『戦時記録』下巻」(2004年)で初めて詳しく明らかにしたのが村史編集室の玉城栄祐さん(86)で、同編集室の豊田純志さん(63)が調査を引き継いでいる。「海の犠牲は国が隠したから表に出てこないが、忘れられるべきではない」と強調する。

 玉城さんが久米島沖船舶遭難について知ったのは1985年ごろ。地元の座喜味出身者の戦死者名簿で3人の戦死場所が久米島沖だと気づいた。石垣市史の記載は年表に数行。「なぜ石垣へ行き、久米島沖で亡くなったのか」という疑問は解けなかった。

ただ1人の生存者

 玉城さんは調査を進め、八重山徴用から戻った体験がある新垣武吉(ぶきち)さんにたどり着いた。新垣さんは、徴用された中部出身者らでつくる2班の班長だった。

 新垣さんから聞いた話などによると、本島からの徴用者は約750人。石垣では二つの海軍飛行場に加え、新たな飛行場建設の労働力や資材不足で工事は難航、44年6月から3カ月の予定は4カ月に延長された。徴用を終えて本島に戻るため、大型船2隻と小型船5隻に分かれて乗船。新垣さんらの小型船は無事だったが、大型船が攻撃を受けた。

 大型船の生存者は、旧与那城村宮城出身の喜友名政信さんただ1人。調査時にはすでに亡くなっていた。だが、新垣さんは、喜友名さんから戦時中に報告を受け、遭難の経緯を記した「行動の概要」も託されていた。それによると、船団は44年10月8日に石垣港を出港。大型船はかじが故障し、久米島近くのコースを進んだ。10日午前7時ごろ2機のグラマン機による爆撃、さらに約10機のB29で猛爆撃を受け、久米島沖20カイリで船は撃沈。大勢が救命胴衣を着て海に飛び込んだが、米軍機からの機銃を受けて亡くなった。喜友名さんも銃撃を受けながら久米島を目標に無我夢中で泳ぎ、鳥島の浜で倒れているのを地元住民に救われた。

難しい全容解明

 戦時中の船の沈没は「軍事機密」。かん口令が敷かれたが、喜友名さんは「行動の概要」を記した。戦後は遺族らの証言者となり、多くの遺族の年金申請を助けた。玉城さんは、村史にそうした経緯や新垣さんの証言、喜友名さんの「行動の概要」などを収録。「もう一つの十・十空襲」として記録した。

 ただ、徴用者が所属した「第一二八野戦飛行場設定隊」の戦時遭難船舶に関する記録が残っていないため船の特定はできておらず、国の10・10空襲の被害にも入っていない。

 豊田さんは全容を明らかにするため調査を続けている。糸満市摩文仁の「平和の礎」の刻銘者名を検索し、44年10月10日の「久米島南方二十カイリ」などでの戦没者が計564人に上ることを突き止めた。宜野湾市66人、読谷村64人、具志川市60人、沖縄市59人など中部が多く、県内全域にまたがる(「沖縄市史第5巻戦争編」)。豊田さんは「北部は伊江島、南部は読谷や嘉手納飛行場建設に徴用され、残ったのが中部の住民だったのだろう」と指摘。強制力を伴う当時の軍の徴用のやり方も問題視する。陸に比べ、調査が難しい「海の戦争」。玉城さんらは、戦時遭難船舶を埋もれさせることなく、石垣市史などにも全容が記録され伝えられていくことを願っている。

 (中村万里子)

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