10・10空襲で最も被害を受けたのが那覇だった。米軍機による無差別爆撃で那覇の街は9割が焼失し、255人が犠牲となった。
那覇市松下町(現在の松山)で生まれ育った新垣トミ子さん(91)=那覇市=は、松山国民学校6年生の時、10・10空襲に遭い、家を失った。最初の爆撃が始まった午前6時45分ごろは学校へ行く準備をしていた。「日本軍の演習だと思ったが、役所から空襲警報が流れ、警防団の人が『アメリカーどぉー』と叫びながら駆け抜けていった」
会社に勤めていた父は宿直で前夜から家におらず、足の悪い祖母と二人で屋敷内にあった防空壕へ避難した。空襲の標的は軍関連施設だけではなかった。市全体が無差別に攻撃された。現在の那覇商業高校近くに住んでいた新垣さんは「火の手は孔子廟(こうしびょう)近くまで回っていた」と語る。
職場から戻った父と県立二中(現在の那覇高)裏手にあった父所有の空き地に逃げ込んだ。空には米軍機が飛び交い「操縦士の顔が見えることもあり、機銃掃射で殺される人もいた」という。
その日の恐怖は一生消えることはないが、空襲から79年がたった今、大勢の孫やひ孫に囲まれ幸せな生活を送る。二度と戦争が起きないよう子どもたちにも戦争体験を話す。「世の中が目まぐるしく変わる中、いつ戦争が起きるか分からない。ただ言えるのは勝っても負けても人は死ぬ。それが戦争だ」
那覇市若狭町に住んでいた山城正常さん(90)=南風原町=は上山国民学校5年生の時に空襲を体験した。透き通る秋晴れの空だった。多くの子どもたちは家の屋根に上り、空を見上げていた。前日に日本軍の訓練があると知らされていたからだ。山城さんも石垣に登り空を見上げていた。
数えるほどしかない日本軍の飛行機に対し、米軍のグラマン機は群れをなしていた。無我夢中で家族と逃げ回り、墓に避難した。骨つぼを取り出し「見逃してください。ごめんなさい」と、手を合わせ中に入った。
空襲が落ち着き外に出ると、街が火の海になっていた。「生きた心地がしなかった。恐怖心や圧迫感、息苦しさを感じた」
79年がたち、山城さんは「戦争ほど無駄なものはない」と断言する。ウクライナ戦争や自衛隊の南西シフトなど、緊迫する国際情勢を憂い、静かに訴える。「命どぅ宝の精神が沖縄だけではなく、世界中の一人一人の願いであってほしい」。
(吉田健一、渡真利優人)
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