那覇市辻にお住まいの山城幸子さん(88)から「10・10空襲の体験をお話ししたい」というお電話をいただきました。当時、垣花国民学校の3年生だった山城さんは那覇市住吉町で空襲に遭いました。沖縄戦で祖父と姉を亡くします。
1944年10月10日の朝、山城さんは住吉町の自宅近くにある祖父の家を出て、垣花国民学校に向かっていました。目の前にある那覇港には日本軍の船が停泊していました。
「パラパラという音がしてね。近くで演習をやっていると思ったのか、屋根に上って見ている人もいました。しばらくしてサイレンが鳴り、『空襲だ』といって逃げたんです」
一緒に避難したのは祖父や叔父らの家族で、山城さんを含む計7人です。住吉町を出て、山下町にある湧き水ウティンダ(落平)の岩場に身を潜めます。
「疲れてウティンダの石垣の下で休んでいました。ちょうどその時、飛行機が低空飛行をして爆弾を落とすのを見ました。しぶきが遠くまで上がり、爆風で雨戸が飛んでいきました」
その後、7人がどこを歩き、逃げたのか覚えていません。たどり着いたのは豊見城村(現豊見城市)の根差部です。父の知人の農家が住んでいました。
「その日の夜だったと思います。大人たちが『垣花は火の海だ。一瞬で真っ赤になった。何も残っていない』と話すのを聞きました」と山城さんは話します。
10・10空襲は民間地域も狙う無差別攻撃でした。山城さんの避難生活が始まりました。