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空襲で自宅焼け、家族避難 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>8


空襲で自宅焼け、家族避難 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>8 現在の那覇市具志の住宅地。米軍上陸前、多くの住民は名護に疎開した
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 日本軍から通信兵としての訓練を受けていた金城重正さん(93)=那覇市=ら那覇市立商工学校(現県立那覇商業高)1年生の生徒は米軍の本島上陸を前にした1945年3月、識名園の壕に動員され、日本兵と行動を共にします。

 3月末、日本軍から「布団、毛布、食べ物が不足しているから、家の近い者は家に帰り、取ってこい」と命じられます。自宅のある小禄村(現那覇市)具志に戻ったところ空襲で家は焼け、家族は名護に避難していました。

 具志への日本軍駐屯は44年夏の第9師団に始まります。第9師団が12月に台湾に転出した後は第24師団の歩兵部隊、その後は海軍の「護部隊」(第951海軍航空隊小禄派遣隊)が駐屯します。

 自宅近くのムラヤー(公民館)にも海軍部隊が拠点を置いていました。隊長の名前から、具志の人々は「吉田隊」とも呼んでいました。家を失った金城さんは吉田隊長を訪ねます。公民館も焼けていました。

 《公民館(ムラヤー)に駐留していた吉田隊長壕に行き、事情を説明したら、吉田隊長が識名園の壕に責任者に電話して「正ちゃん(金城さん)の家族は名護の数久田に疎開しているから、そこに正ちゃんも行かせたい」と了解を取ってくれた。》

 金城さんは家族が避難した名護に向かいます。