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【傍聴記・米兵少女誘拐暴行公判】つらい体験の記憶、苦痛に 上間陽子(琉球大学教授) 


【傍聴記・米兵少女誘拐暴行公判】つらい体験の記憶、苦痛に 上間陽子(琉球大学教授)  上間陽子氏
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 米空軍兵長の被告は今日もまた、「僕は無罪である」「僕はお金を失った」「僕は時間を失った」と繰り返した。そして被告の弁護士は今日もまた、被害者の方が18歳と言ったと話し、あたかも被告が被害者であるかのように話した。

 弁護士はこうも続けた。もしも性暴力を受けたならば、その記憶が抜け落ちているはずはない。また、もしも嫌なら、もっと大きな声で拒否し、抵抗するはずだと。だが、これこそがまさに、性暴力の現場で起きることだ。

 小さな動物が、肉食獣に捕まる映像を見たことがあるだろうか?肉食獣に捕まった小さな動物は暴れるのではなく、息をひそめじっと固まる。そうやって抵抗しないことで、被害者はなんとか生きながらえようとする。だがその記憶は、あまりにもつらいため詳細に覚えられない。死ぬ思いをしながら生きながらえたその記憶は、生きて記憶することが苦痛なほどの重い記憶だからだ。

 臨床の現場では、こうした性暴力の記憶を詳細に尋ねることはしない。何かのはずみで蓋(ふた)があき、動悸(どうき)がし、過呼吸になり、涙がとまらなくなる。そういった被害者の身体反応自体がまさに、性暴力があったことの証拠だからである。だから必要とされているのは、そういった症状の訴えを受けとめ、証言をしたそのひとを丸ごと支えることなのである。

 今回の性暴力の案件がむごいのは、トラウマ反応をよく知る精神科医の意見書などがないなかで、被害を受けた子がたったひとりで法廷に立ち、その記憶の詳細を尋ねられ、その記憶の整合性を問われるなか、証言し続けたことにある。そして今なお、被告と弁護人は、彼女が18歳だと嘘をついたのだと強弁することで、被告がお酒を飲んでいたことや、数々の証拠から私たちの目を逸らそうとする。

 性暴力を受けたひとは、こうやって自分の記憶を否定されることで何度も苦しむ。

 だから、この裁判の判決が示すのは、私たちの社会の在り方でもある。

 私たちは被害者の側に立つのか、それとも知らんふりを決め込むのか。問われているのは、私たちの社会は、彼女をふたたび独りぼっちにするのかということである。性暴力の起きたあの現場に、もう一度この子を突き落とすのかということである。

 (教育学)